「鎌倉殿の13人」第17回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第17回。平家討伐は一休みで、鎌倉がメインの回でした。それにしても鎌倉は怖いところです。もっとも、その怖さをますます深くしていくのが、北条時政であり、義時であり、金剛こと泰時なのですが。
合戦よりもホームドラマの大河ドラマ
前回ラストで一ノ谷の戦いに突入と思ったら、今回時点ではもう終わった話になっていました。コロナの影響ですかね。もっとも、このまま源平合戦も奥州征伐もなるべく取り上げず、もっぱらホームドラマで濁すつもりなのでしょうか。感染対策しながら合戦シーンというのは難しそうな気がするので、仕方ないのかもしれませんが。
それなら例によって幕末でもやっておけばあまり合戦とか描かなくてもよかったでしょうけど。企画を立てた頃はこんな頃になるとは思っていなかったのでしょうから、これもまた仕方ないのでしょうが…。CGとかでも良いからもうちょっと合戦とかも取り上げてほしいですが、まあ、無理なんでしょうね。
次回はまた平家討伐に戻りますが、一気に壇ノ浦まで終わらせてしまうようです。これからどんどんドロドロしていく中、合戦シーンもなく、メリハリのないホームドラマを続けて大丈夫なのでしょうか。御家人同士の腹の探り合いや激しく移り変わる人間関係を描くにしても、そもそも登場人物が少な過ぎて…。
義高の最後
「鎌倉殿の13人」時空は歪んでいるので、時系列がおかしなことになっています。
一連の義高の騒動は1184年4月下旬の話です。一方で、劇中では義高に謀反を唆したとして誅殺された一条忠頼とその父、武田信義が鎌倉を訪れたのは同年6月。忠頼の死も当然6月のことです。ですので、そもそも鎌倉で義高と忠頼が会ったという事実もないでしょうし、唆すこともできません。実際、歴史上の忠頼誅殺の理由は義高とは一切関係ないし、酒宴で殺されたとされています。
また、劇中では義高を討ち取った藤内光澄が御所に一人で首を持ってやってきます。しかし、この藤内光澄は堀親家という御家人の郎党です。つまり、家来の家来にすぎない光澄が一人で首を持って御所にやってくるというのがそもそもおかしいと感じます。少なくとも、堀親家が首を持ってくるのに同行するくらいが妥当であり、さらにそこには武蔵の有力者である比企能員も同席して然るべきかと思われます。それを光澄という家来の家来という立場の人間が御所に一人でやってきてそのまま頼朝の御前に罷り通るなんて、流石にそれはないでしょうという感じです。時代考証はよくこれを通したな、と感じます。
ちなみに、政子によって光澄が討たれて晒し首になったのは史実のようです。これは義高の死を知った大姫が病に臥してしまい、光澄が頼朝の命令通りに討ち取ったことが原因であり、まずは大姫(当時6歳)に相談すべきだったのを怠った光澄の不始末である、という不思議な言い分で処罰されて命を落としたのですから、浮かばれません。
彼の主である堀親家は山木館襲撃や石橋山合戦以来の頼朝の家臣であり、比企一族の関係者でもあるので、流石に処分には巻き込まれなかったようです。後に、二代将軍頼家にも仕えています。が、比企の乱に巻き込まれて結局北条方によって殺されてしまいます。
この件で義時は政子に対して劇中で御台所の発言の重さを感じてほしいなどとはんば八つ当たりで嗜めていますが、どの口で言うかという感じです。そもそも、亀の前事件の際にも、亀の前を自邸に匿ったことで、政子の命を受けた牧宗親に自邸を壊された上に、政子の怒りを買って遠江に流罪にされた伏見広綱という人物がいます。
彼も頼朝の命に従って亀の前を匿っただけであり、その後、頼朝によって牧宗親の髻が切られて辱めを受けた件にも特に関わっていないはずなのに、逆恨みで流されてしまったのですから、今更の話です。光澄も広家も主君(やその主君)の命令を律儀に実行しただけなのに、御台所政子の感情だけで難癖つけられて処分されたのですから。
当時、大した力もなかった北条一族が、御台所という立場を利用してこれだけ無法をしていたのですから、そりゃ他の御家人からは嫌われるというものでしょう。だからこそ、時政は生き残りをかけて非情に徹した面もあったのでしょう。いい感じで、鎌倉で人望篤い時政という描かれ方をするのは、ちょっとどうかと感じます。
義経の検非違使任官
一般的に頼朝と義経の不仲の原因になった一つの理由に挙げられる頼朝の許しのないままの検非違使任官。この頃、劇中のように範頼が鎌倉に戻っていたのは事実ですが、それについて一切の説明がないあたり、その辺のことは脚本的に重視してないのだろうな、というのが分かります。
その人物が誰かという字幕も初見のみ、しかも主要人物ですら全員に字幕が出るわけでもない等、どうにも説明不足感が否めません。まあ、説明臭くなるのを避けたいのかもしれませんが、正直、馴染みの薄い鎌倉時代を説明する気はないのだろうとも感じます。こちらはある程度事情がわかるので良いですが、現代風の言い回しや行動で鎌倉らしさを感じさせないのも、説明を避けるためだったのかもしれません。
話を戻して、義経の検非違使任官。ただ、義経が任官するのは8月の話で、今回の話はそれを遡る6月の話です。なんで、脈絡のない任官話を義高の一件の合間に挟んだのかはよく分かりません。
ちなみに、頼朝が義経はもちろんとして無断任官を禁止した背景は諸説あります。その一つに、京での任官で京に在職する必要がある官職につくことは、京に残ることを意味することとなるので許さなかったという話があります。ですので、例えば後に北条氏が相模守や武蔵守といった国司の任官をするのは在京ではないので構わないですが、検非違使といった在京官職を得ることは鎌倉を離れることになるため許さなかった、という見解があります。
それが正しいかは分かりませんが、頼朝なりのこだわりがあったようで、上洛時に一時的に在京官職を受けたことはあっても、鎌倉に戻る際には辞任して戻ったとか。こういう事情とかの話もおそらくスルーされて、面白おかしく鎌倉殿や御家人たちのドロドロした部分や、頼朝一族の骨肉の争いを描いて上っ面の鎌倉時代を描いて終わるのではないかと最近は感じています。
工藤祐経と曽我兄弟
今回冒頭で工藤祐経が義時の家を訪れた際、石を投げつけていたのがおそらく仇討ちで有名な曽我兄弟かと思われます。
なお、祐経について吾妻鏡が最初に触れるのは、この後に平重衡が鎌倉に送られた時です。まあ吾妻鏡に出てこないだけなのでこの時期に居るのはおかしいとは言いませんが、あえて祐経を今出してきたのかが、これまたよく分かりません。
しかも、最後には「鎌倉は恐ろしいところだ」と鎌倉を離れる旨を告げていたのは祐経ですよね?見間違いなら申し訳ありませんが、祐経は頼朝の寵臣としてその後も頼朝のそば近くに支えています。と言うか、今鎌倉を離れてしまったら仇討ちの起きる富士の巻き狩りまでにどう戻ってくるのやら。後の頼朝の上洛にも同行しているくらいなのですが。まあ、武勲はないので地味な武将というのも確かですが、義時に「どうとでもなる」とか、頼朝に「(義高の監視は祐経ではあてにならないから)別人にしろ」とまで蔑まれる程ではなかったように思います。というか、冒頭のシーンでは義時は(同じ伊豆の豪族である)祐経をよく知らなかったようなのに、あの言いようはちょっとおかしくないでしょうか。
彼は京で平家に支えていたほどの風流人であり、それで頼朝にも重用されたのかと思います。八重というか、その父の祐親に所領も妻も奪われたということもあって、八重に文句を言われるよりは、八重等祐親一族に彼の方こそ恨みがあるのですが。その辺りの事情も最初の頃にちょろっと出てきてそれで終わりですね。本当に薄っぺらい描かれ方で、曽我の仇討ちの頃には一連の経緯も忘れ去られてそうです。
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