「鎌倉殿の13人」第23回・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第23回。先週の陰謀計画を受けての富士の巻き狩りと曽我の仇討ちとなります。

頼朝、最後の悪運?

今回の最後、北条義時の「やはり守られている」という発言に対して、頼朝は「たまたま生き残っただけ」と返します。実際、富士の巻き狩りが1193年の夏頃。翌々年の2度目の上洛を最後に、吾妻鏡に頼朝の記述はなくなります。

それどころか、そもそも頼朝の死後がだいぶ後の年代の記述の中で、そういうことがあったという過去形で語られるのみ。有名なのは吾妻鏡起源の落馬説ですが、落馬の後に亡くなったというだけで、落馬自体が今でいう脳卒中等が原因であり、直接の死因ではないのではないかという意見もあります。北条得宗家的になんらかの不都合があったために伏せられているのではないかという意見もあります。

色々盛り盛り、曽我の仇討ち

今回の曽我の仇討ちについても、色々と想像の翼を羽ばたかせて、かなり盛り盛りの内容となっているようです。

可哀想に初陣を汚された万寿(頼家)

富士の巻狩りにおいて、万寿(頼家)が鹿を射止めたことは吾妻鏡にも記載されていることです。その際、使者が死者が政子の元に送られたが、政子がそれは当然と冷淡な対応をしたのも有名な話です。

もちろん、今回の話のように頼家が討ち取った体にするという裏工作がなかったとは言えません。この辺りは吾妻鏡による暗愚な二代将軍像から本大河でも武芸はできないイメージ、暗愚なイメージを与えたかったのではないかと思われます。

しかし、京の公家側の資料ではそこまで酷い扱いはされておらず、この辺りは、吾妻鏡が北条得宗家の政治的意図を持って曲筆されていることを裏付けているとの意見が一般的かと思います。

なお、その万寿までも討ち取られたかの風聞が鎌倉に伝わっていましたが、これも作為的な感じです。範頼に関して、頼朝が討たれたと伝えられた政子を宥めるために範頼が「自分がいる」と告げた話は有名ですが、その際に頼家も討たれたという話は見かけないものです。

巻き狩りには参加していなかった比企能員

今回、比企能員が政子の元に使者として赴いて冷淡な扱いをされて憤慨します。が、吾妻鏡によると、そもそも比企能員は巻狩りに参加していなかったようです。おそらく、蒲冠者、源範頼と共に鎌倉の留守を守っていたと思われます。

ではその使者は実際は誰だったのかということになりますが、梶原景時の次男、梶原景高が使者として政子に報告し、追い返されたと吾妻鏡には記載されています。本大河ではおそらく景高は登場していないため、比企能員にお鉢が回ったものと思われます。

ここには本大河の吾妻鏡も真っ青の比企能員悪玉工作の伏線でもあるものと思われます。これまでも、北条氏を警戒していた比企能員ですが、今回も仇討ちを装った謀反計画を利用して北条時政の失脚を狙っていました。なんとしても、後で比企能員を討ったのは北条時政が売られた喧嘩を買って逆襲したから、ということにしたいのでしょう。

蒲冠者を唆して、兄弟対立の火種を作ったのも比企能員の企みということにされています。吾妻鏡でもそこまで踏み込んでいないのですから、吾妻鏡以上に北条贔屓と北条の的を貶める工作が徹底しています。まあ、主人公一族を綺麗なままにしておきたいのでしょう。今回、北条義時が比奈(姫の前)に対して「あなたが思うほど(自分は)きれいではない」等と言ってましたが、あれは露悪的に言わせているだけでしょう。今まで散々北条擁護をしてきて、何が「きれいではない」なのかと零したくなりました。

曽我の仇討ち=北条時政陰謀説

長いこと言われてきたのが、曽我兄弟の烏帽子親である北条時政こそが頼朝暗殺を企てた黒幕だったという説です。これ自体は当然証拠はなく、この後で頼朝時政の関係が悪化したとかいうこともありません。ただ、ある歴史家によるそういう主張があったために長らく信じられてきた説ではあります。

今回、時政は知らなかったことにされ、その黒幕の立場がノーマークだった比企能員になっています。正確には、陰謀があることを知りながら敢えて泳がせた、というべきでしょうか。それで頼朝が討たれたという誤報が広がり、範頼を担いだことでその範頼が失脚してしまうのですから、飛んだお騒がせです。が、この辺りにどうしても北条贔屓、北条に敵対した比企を貶める意図を感じてしまいます。

金剛は巻狩りに居たのか?

実は吾妻鏡の巻狩り参加者のリストには金剛(泰時)はありません。北条関係者は時政と義時だけです。万寿の一つ下の金剛は当然のことながら元服もしていません。彼が元服するのは翌1194年です。

空気を読まない金剛でしたが、実際には巻狩りには参加してないかもしれません。何しろ、弟の五郎時連すら吾妻鏡のリストにはないのですから。

そうすると万寿(頼家)も元服していないじゃないかという話になるかもしれませんが、この時、万寿が鹿を仕留めたことから矢口祭りという催しが行われています。これによって頼朝の後継が万寿であることをお披露目する場となっていたわけで、本大河の歴史交渉をされている坂井氏はこの時万寿が元服したのではないかとしているそうです。八重=泰時の母説は採用されましたが、万寿元服説は採用されなかったようですね。

実際問題として、万寿こと頼家がいつ元服したかは、この頃の吾妻鏡が欠けていることから、頼朝の晩年と共に謎とされている部分です。本来、巻狩り〜鹿を射止めた〜祭りからの流れで元服するという演出だったのかもしれません。そういう点では、万寿に手柄を上げさせる工作はなかったとも言い切れない部分はあります。

相模対伊豆の暗躍

大河の脚本でも想像の翼を盛大に広げているので、自分も広げてみます。

前回も書きましたが、伊豆北条対相模武士団の構図です。

時政ら北条家は元々伊豆小豪族でしたが、義経の後に京に入って手腕を発揮した時政は、この頃には駿河をほぼ掌中としています。ですので富士の巻狩りも北条時政が先行して現地に入り、お膳立てをしています。劇中でも北条時政、義時父子に対して、比企能員と安達盛長が「なんとか万寿に手柄を上げさせろと」言ってますが、これは現地の駿河が北条の支配下にあり、巻狩りの責任者が時政だからでしょう。

そして、曽我兄弟の母親が後添いとなった曽我氏は大庭系の相模の武士団です。そういえば、前回直接陰謀を企んでいたはずの岡崎義実を今回見かけませんでした。実際、吾妻鏡の巻狩り参加者にも大庭ともども名はありません。

実は、巻狩りの騒動の後、範頼が処罰された頃に岡崎義実と大庭景義は高齢の為と称して出家しています。本大河で描かれたような曽我兄弟の背後に彼らが居たという説はありませんが、伊豆と駿河を抑えて鎌倉に近い相模の西部に手を伸ばし始めた北条氏と、相模を古くから治めていた大庭氏系の豪族の勢力争いが関係しているのではないかという気はします。本来、大庭系で相模に所領がある曽我氏の烏帽子親に北条時政がなるというのも不自然な気がしますし。三浦以外の相模西部は平家方についた大庭系豪族が治めていた土地ですが、いつの間にかしれっと北条のものになっているのですよね。直接的には和田の乱で大庭氏は和田方について失脚されたものとみられ、その後、北条義時が相模守に叙任された後は、代々、北条氏が相模守になっています。ただ、和田の乱では途中で北条方に寝返った三浦義村ら三浦本家以外の相模の豪族は和田方についたものもいます。西から迫る北条氏からの圧力に対抗して、同じ相模の和田方についたのではないかと思います(もちろん、和田方と姻戚関係があったものも居ますが)。

隣接する駿河守、武藏守もやや遅れた頃から北条氏が占めています。その対抗上からか、和田義盛は晩年上総介の叙任を望みましたが、結局叶えられませんでした。これが後の和田の乱の遠因になったとも言われてます。