「鎌倉殿の13人」第24回・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第24回。富士の巻狩での事件の収集から範頼追放、頼朝の2度目の上洛から大姫入内工作と失敗、範頼暗殺と、まあ盛りだくさんな回でした。

頼朝晩年の暗雲

困った時の善児頼み。何か起こすときは、梶原景時と善児を使えば良いと思ってませんかね。

範頼の最期

今回話題になった起請文で「源範頼」と書いて激怒されたというのが伝わっている話です。ただ、別に今までそれで問題なかったですよね、というのがあります。前回、曽我の仇討ちが北条時政陰謀説を取り上げましたけど、その時政が頼朝の暗殺に失敗したことから責任を範頼に擦りつけた、という説もあります。まあ、流石に陰謀論すぎるのと、そもそも時政黒幕説が最近は否定されがちなので、まともに取り上げられていませんけど。

範頼の最期については吾妻鏡は「伊豆に流された」で終わっており、その後については描かれていません。この時から100年以上経った資料に誅殺されたとの話がいくつかありますが、真偽は不明です。

なお、本大河では一度描かれただけでほとんど無視されている常陸豪族にこの頃不穏な動きがあり、その調整役が範頼であったという説もあります。結局、常陸の豪族と頼朝の間の問題が拗れて範頼が責任を負わされたという説もあります。無理矢理な更迭劇は吾妻鏡のいつもの曲筆ではないかという疑問もないではないです。本大河でも出てきたように、範頼の妻は比企の一族ですので。

範頼の最期・異説

範頼のその後についてはいろいろ異説もあります。そのうちの一つに横須賀が関わっています。京浜急行で金沢八景を出て横須賀市内に入った最初の駅が「追浜(おっぱま)」ですが、この地名の由来が範頼という伝説があります。修善寺を抜け出した範頼が逃れてきた先が鎌倉の裏の港である浦郷で、追っ手が来たのが追浜という説です。この時、地元の人が鉈を持って追っ手に切り掛かった地が「鉈切(なたぎり)」となり、その人物に対して範頼は何も贈れないので「蒲谷」という姓を与えたとされています。そのため、金沢、追浜、逗子辺りに蒲谷姓が多いとか。

ちなみに、頼朝も石橋山敗戦後、鎌倉入りするまでの逃亡時代にあちこちで名前を送っています。

なお、伝説ではありますが「追浜」の由来には諸説あり、もともと乙浜(おつはま)だったとか、追い浜(おいはま)だったが、海軍が飛行場を作った際に追われる浜では縁起が悪いとされたとか、諸説あります。鎌倉時代から追浜という地名だったという記録は今のところないそうです。
なお、その海軍飛行場跡地が日産の追浜工場です。

時政陰謀説は現在では否定されることが多いですが、御台所の地位を得た北条氏と、頼家の乳母と義経、範頼の正妻の地位を得た比企氏との勢力争いは確かにあったのでしょうから、北条とすれば義経、範頼はなんとしても廃したいところではあるのも確かだったかもしれません。時政が暗殺を企んだというのは言いがかりだとしても、その後の話の流れで都合の良いように立ち回った可能性は否定できない気はします。

本大河の時政は好々爺として描かれているので、そういうイメージないでしょうけど。今後の粛清劇の主役は北条氏であり、時政なのですが、好々爺イメージで北条は悪くない、刃向かった比企や三浦が悪いで押し切るつもりでしょうか。

源通親(土御門通親)

本大河では土御門通親として紹介されましたが、俗称であって本来は源通親です。中原広元といい、なんか本大河の人の名前はいい加減ですね。まあ、後で名前を変えた中原(大江)広元は見ている方も混乱するので良いとしても、多分、源通親は当時の人は土御門通親なんて呼んでいなかったのではないかと思います。土御門家の家祖は彼の息子(長男ではない)ですので。

本大河ではポッと出で今までの経緯とかもほとんど描かれていない影の薄い人ですが、なかなか面白い人です。高倉天皇から7代の天皇に支え、当時の権力者と縁戚関係を結びまくって生き延びた稀有の謀略かでもあります。この人だけで大河ドラマを作っても良いくらいの波瀾万丈な人生を送っています。平家に取り入り、後白河院に取り入り、源氏に取り入り栄華を極めた彼ですが、本大河の脚本の前にはモブに近い扱われ方で不遇です。

巴御前と和田義盛

今回、義高を忘れられない大姫が訪ねたのが、源(木曽)義仲の妻であった巴御前。彼女が捕らえられた後の消息はこれまた不明です。
そもそも、吾妻鏡や京の公家の日記といった一級資料には登場しない人物です。一部の物語では和田義盛に嫁いで朝比奈義秀を産んだとされています。この朝比奈義秀は後の和田合戦で大活躍する武者ですが、その生年は義仲が死ぬ前なので、少なくとも義秀の生母が巴御前であるというのは否定されています。

三浦義村

いつも北条義時の良き理解者として支えてきた三浦義村。今回、内輪の酒の席で初めて北条と三浦の格差について不満をぶち上げました。

この後、梶原氏の失脚に始まり、御家人同士の血で血を洗う粛清劇が繰り広げられますが、その都度、北条氏(時政、義時、金剛こと泰時)と面従腹背で競い合うのが三浦義村です。時に北条を追い落とす動きを見せたかと思えば、形勢不利と見ればあっさりと裏切って北条に付く。承久の乱でも京側が送った北条討伐令をあっさりと北条に渡したり、時には政子や北条氏を手助けする等、一癖も二癖もある人物です。頼朝死後に反北条として最後まで争い続けるのがこの三浦義村となります。

この後、頼朝の死後に怒る粛清劇ではかなり中心的な役割を果たす彼の今後の活躍に期待です。

ちなみに、三浦と北条の格差について突然出てきたので、経緯を知らない視聴者にはピンとこないかもしれません。前回の補足にも書きましたが、この頃の北条時政は京での活躍を経て、駿河一国をほぼ収める実力者になっていました。元が伊豆の小豪族ですからすごい出世です。
まあ、時政自身が京で暮らしていた時期があったともされ、それだけの実力があったのも確かでしょうが、相模、武蔵の坂東御家人にとっては気に食わないことであるのは確かでしょう。
本大河では三浦義澄と北条時政は義時と義村の様な親しい間柄の様に描かれていますが、これは本大河独自の解釈です。確かに、伊東祐親の娘を娶った義理の兄弟同士ではあります。ただ、時政が伊東祐親の娘を妻にしたのは割と晩年です。彼自身は京の出身という説(だから今日出身の牧氏のでである牧の方を妻にできた)もあり、義澄とそれほど親しいとも思えません。

一方の三浦氏は鎌倉のすぐ近くの三浦を抑える実力者ではあるものの、相模の一豪族に過ぎません。宿老として重用されてはいても、駿河一国を勢力にもつ北条氏との実力の差は明白です。
ただ、頼朝もそこは配慮しており、地の利もあってよく三浦半島を訪れたとされています。頼朝は今でいう別荘を三浦半島に何箇所か持っていました。いざ事あれば最大兵力を鎌倉に即座に動員できる三浦氏は蔑ろにはできる存在ではなく、かと言ってこれ以上力を持たれるとそれはそれで厄介、という位置づけだったのかもしれません。これも、北条氏の相模、武蔵進出で均衡が崩れていくことになります。

こういう背景があって、義村は不満を訴えているわけですが、今までそういうそぶりを見せたことがないので、本大河で鎌倉時代を知った視聴者にはちょっと唐突に映ったと思うのですが、実際どうなのでしょう?鎌倉時代を知ってる者から見れば三浦が鎌倉中期までは北条に次ぐ実力者(ただし、差は大きい)であることを知っていますが、多くの人は頼朝が建てた幕府を早々に北条氏が奪ったという認識でしょう。北条ばかり取り上げる本大河が、今までの先入観をさらに助長していることになってます。

そういう御家人間の力関係とか裏の駆け引きをあまり描かない本大河にはちょっと失望気味ですが、さすがにこの後の粛清劇を描かないわけにはいかないでしょう。徹底的に「いい人」として描いてきた北条時政や義時を今度どう扱っていくのか、ある意味楽しみではあります。