「鎌倉殿の13人」第22回・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第22回。初上洛から後白河法皇の死、そして頼朝暗殺計画と、随分と駆け足の展開となりました。

比企と北条の水面下での対立進む

今回、裏では北条と比企の対立が水面下で進みます。もっとも、意識して突っかかっているのは比企側で、北条側は「比企と誼を通じたい」みたいなお綺麗なことを言ってます。
この後、比企の乱で対立する両家ですが、本大河は北条寄りに徹してますので、比企が自滅した構図としたいのでしょう。いや、北条得宗家贔屓の吾妻鏡も真っ青です。

比奈こと姫の前とは

今回唐突に現れた比奈。頼朝の乳母である比企尼の実子、比企朝宗の娘です。そして、北条義時の正妻になる女性です。ただし、比企の乱により離縁されてしまいますが。なお、比企の総領、比企能員は比企尼の実子ではありません。

吾妻鏡では頼朝のお気に入りの美しい女官であったが、義時が1年にわたって猛アタック。しかし、一向に相手にされず、最後には頼朝の命で義時の正妻となった、とあります。本大河での描かれ方とはかなり違っています。

姫の前は正妻として次男、朝時と三男、重時を産みます。しかし、義時の後は庶長子の泰時(金剛)がついだため、本来は長男である朝時は分家扱いとなってしまいます。比企の血を引くというのも不利になった原因の一つかも知れません。歴史上は朝時は実朝時代に不祥事を起こしたことで義時の後継になれなかったという扱いですが、まあ、後付けのような気もします。

この朝時の系統は名越に住んだことから名越流と呼ばれ、北条家内の反得宗家勢力となります。一方で重時の子孫は得宗家を支え続けます。

曽我の仇討ち前夜と岡崎義実

今回、これまた突然に曽我兄弟が登場しました。りくの問いに応える形で説明がありましたが、そこでは工藤祐経が悪いような言われよう。

ただ、そもそもの発端は伊東祐親が、祐経の後見人の立場にありながら祐経が京にいる間に伊東庄を横領してしまったことにあります。そのまた原因は祐親の祖父であり義父でもある工藤祐隆が嫡孫であった彼を差し置いて養子である祐経の父である祐継に継がせてしまったことだったりするので、かなり複雑な関係です。

その仇討ちの裏で、岡崎義実が糸を引いているのか頼朝暗殺計画が語られます。
ただ、この曽我兄弟の仇討ちの裏で頼朝暗殺計画があったという件は、今年1月に放送された「鎌倉殿サミット2022」では、この時期に頼朝を討っても体制を維持できないとして明確に否定されているのですが。
この番組には歴史考証の坂井氏も参加しています。正直、鎌倉時代の歴史的な点としては「鎌倉殿の13人」よりよほど面白いので、鎌倉時代に興味を持たれた方はNHKオンデマンド等で視聴されることをお勧めします。

今回、まるで首謀者のような扱いの岡崎義実。彼は三浦の総帥、三浦大介義明の弟であり、三浦一族の長老となります。彼には嫡男の佐奈田義忠という息子がいましたが、石橋山合戦の際に長尾定景という武将に討ち取られます。その後、その定景は岡崎義実の元に預けられますが、彼は定景を討ち取らず最終的には頼朝に助命嘆願して許されます。その後、長尾定景は三浦一族の郎党となり、実朝暗殺事件を起こした公暁を討ち取ることになります。

そんな人物を捕まえて、謀反の張本人のような描かれ方は納得し難いものがあります。彼はみんな大好き上総介広常とも諍いを起こしていて、同族で歳若の佐原義連に諌められたりもしていますが、謀反を起こすような人物ではないように感じます。

なお、彼はその後、不遇ではありましたが1200年まで存命でした。今回、謀反の首謀者扱いですが、すでに梶原景時にバレてます。そんな状態でどう生き残る話にするのかが気になるところです。

曽我の仇討ちと北条時政

この筋書きに関連してか、仇討ち事件の背景説の一つとして、岡崎義実と大庭景義が反北条クーデーターを起こした、という説があるとか。
今回、小四郎義時が金剛に対して「北条家は他の御家人より上だから慎まなければならない」と上から目線で語っています。それと関係するのか、この説では頼朝がターゲットではなく烏帽子親として主人面している北条時政こそがターゲットだったとされています。その根拠として兄弟の兄を討ったのは北条方の人間でした。まあ、来週、義時から告げられた時政が何か手を打ったためかも知れません。

さらに想像を広げるならば、兄弟の養父である曽我氏は大庭傘下の相模の御家人であり、その兄弟の烏帽子親が伊豆の北条時政というのもやや不思議なところです。まあ、北条時政は伊東祐親の娘婿でもあるので、血縁としては北条時政の方が近いし、実際に兄弟は時政の庇護下にあったようです。
ただ、相模の大庭氏としてはあまり面白くない話ではある気はします。曽我家には兄弟の異母兄がおり、最終的に曽我家の家督はその異母兄が継いでいます。曽我の所領は小田原の曽我であり、大庭と北条の大庭側最前線とも言えます。一説には兄弟の兄、祐成が曽我の家督を継いだという話もあり、そうすると相模側に北条の橋頭堡ができたこととなり、大庭側としては面白くないですよね。

結果としてクーデターは失敗し、義実は出家、景義は鎌倉追放になったとされています。

また、さらに別の説もありますが、そちらでも岡崎、大庭が北条時政を狙ったとされています。どちらにしろ、岡崎義実の狙いは時政というのはある程度真実なのかも知れません。それを北条至上主義の本大河では頼朝を狙ったと悪役を押し付けようとしているようです。

まあ、このように曽我の仇討ちをめぐっての陰謀論には諸説あるのですが、結果として得をしたのは北条時政と北条家となりました。
本当に岡崎と大庭という相模武士団が北条時政を狙ったのかわかりませんが、結果として工藤祐経が殺されることで伊豆一帯は北条家の支配下に纏まることになります。
祐経は頼朝のお気に入りであったので、この事件がなければ北条は伊豆を完全支配することは頼朝の代にはできなかったでしょう。さらに、時政はこの時点で駿河の支配を確立している上に、この事件から波及して蒲冠者、源範頼も誅殺されることとなり、彼に縁のあった遠江も北条時政の支配下になります。
相模の有力御家人を失脚に追い込み、伊豆支配を確立し、遠江まで手に入れた北条時政はこの時、有力御家人になったとも言えます。武蔵を仕切る比企氏が北条を意識するようになったのも、この頃かと思われます。つまり、彼が首謀したのか、うまく逆襲したのかわかりませんが、結果としては北条時政の大勝利となります。

結果から見ると、この時点で駿河を収めた時政が相模方面にも侵食していたのかも知れません。それに対抗する形で相模の岡崎、大庭が反撃した。という流れが自然に感じます。結果的には逆襲を受けて自滅してしまいます。ただ、この流れは比企の乱の流れに酷似しています。比企の乱も比企能員が北条時政を排除しようとした結果、逆撃されて討たれてしまいます。
討たれたことと出家、追放ではだいぶ差がありますが、それは北条家の勢力の差かと思われます。大庭、岡崎の時はまだ北条家は体制を固めきれていなかったが、比企の時は十分な力を持っていたためかと。あるいは、北条側が大庭、岡崎や比企を挑発した、というのもないではないかと妄想してしまいます。
ただ、勝てば官軍で北条得宗家が残した吾妻鏡では北条はあくまで被害者扱いであり、北条が逆襲して勝ち残った、ということにしているだけではないかと。

そういう、鎌倉時代の虚々実々の駆け引きをあまり描くことなく、北条家ホームドラマに徹している本大河には正直がっかりしているところです。