「鎌倉殿の13人」第41回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第41回。ついに和田合戦の本番、源平合戦よりも奥州征伐よりも気合の入った合戦シーンと、実朝と義盛の絆を感じさせる演出、小四郎の哀しみなど非常に見どころの多い回。「鎌倉殿の13人」屈指の回となったのではないでしょうか。
とは言え、細かいところで色々あるので例によってツッコミを入れておきます。
義盛を失ったことで実朝と北条は決裂、実朝事件への伏線か?
鎌倉時代初期の最大の内部抗争であり、北条氏、特に義時が執権として決定的な権力を得るきっかけにもなった大事件が「和田合戦」、「和田義盛の乱」と呼ばれる今回の事件。1213年5月2日から翌3日にかけて行われた合戦です。
和田の乱とは
劇中では最後の部分で彼我の死者数などがまとめられていましたが、もう少しまとめておきます。以下はWikipediaの「和田合戦」からの引用になります。
幕府軍 | 和田軍 | |
所属勢力 | 北条氏、三浦氏、足利氏、千葉氏など鎌倉御家人 | 和田氏、横山党、土屋氏など |
大将 | 北条義時 | 和田義盛 |
戦力 | 不明 | 三千数百騎 |
損害 | 死者不明、負傷者188名 | 死者 234名、処刑3名 |
合戦の経緯
背景
前回の放送であったように、和田義盛の上総介就任がならなかったことや、泉親衡の乱の戦後処理と北条義時の挑発もあって、和田方が決起します。それに対して源実朝は使いを送り義盛の真意を糺します。その返答として、義盛は実朝に対する範囲はないが、義時のやりように若いものが収まらず、もはや自分が止めることもできない、とも回答しています。「鎌倉殿の13人」では使者のやり取りこそないものの、一度は手打ちとなりかけたが一族が収まらず、束ねる義盛としても決起せざる得なくなったというあたりは史実通りです。
ただし、この辺の経緯は様々な話が伝わっています。例えば、京方の藤原定家の日記、「明月記」では義盛は一旦は許されたが御所で粛清の密議が行われていたのを察知した義盛が挙兵したとされている一方、慈円の「愚管抄」では義盛が義時を妬んで討とうとして露見、そのため挙兵とされています。室町時代の史料では義盛の息子たちが頼家の遺児を担ごうとし、義盛も同意したとあります。おそらく泉親衡の乱で担がれた頼家の三男かと思われます。
5月2日
義盛邸の隣家の八田(小田)知重から大江広元に対して、義盛の館に兵が集められているとの通報。同時に三浦義村から北条義時にも挙兵の報せが届きます。「鎌倉殿の13人」では双六をしていたようですが、北条義時は知らせを受けた時に囲碁を打っていたと伝わっています。
夕方近くに挙兵した和田軍は大倉御所南門、義時邸、大江広元邸を襲撃。義時邸と広元邸は留守の者しかおらずにすぐに陥落します。その2時間後には御所を囲んだ和田軍に対して、三浦義村と北条朝時が防衛します。日暮まで両軍戦闘を続けますが、幕府軍には足利義氏などの新手が次々と駆けつけ、和田軍は由比ヶ浜まで退却して初日は終了します。
なお、「鎌倉殿の13人」では和田軍の襲来の直前に実朝が脱出したような感じに見えましたが、実際は和田軍の襲撃の最中に辛うじて逃げ出すことに成功したようです。事前に北条政子と御台所を鶴岡八幡宮に逃したところまでは史実ですが、実朝はその時点では同行していなかったようで、ここは史実と異なる部分です。また、実朝が脱した先は鶴岡八幡宮ではなく法華堂とされています。
この法華堂は頼朝の墓があるとされ、その後の鎌倉の歴史でも度々登場する重要な場所です。ドラマでは実朝と政子たちを1か所にまとめておきたかったのでしょうか。法華堂というのはある意味シンボリックな場所なので、ここを描かなかったのはいかがなものかと思います。
5月3日
翌朝、武蔵の畠山氏が麾下においていた武蔵七党の横山党が援軍に駆けつけます。横山党は和田義盛の妻(側室)の実家です。武蔵の有力武士団の一つでもある横山党の援軍は和田軍を大いに盛り上げることになります。
そのしばらく後、「鎌倉殿の13人」でも話題になっていた西相模の御家人が稲村ヶ崎方面から現れます。ただ、劇中では和田の援軍とされていますが、その時点では敵か味方か不明だったようです。慌てて劇中でも登場した実朝の御教書で彼らを幕府方に取り入れ、由比ヶ浜の和田軍にも示します。これで御家人の帰趨が一気に幕府軍に傾きます。
午前中に和田・横山軍は鎌倉市街に再突入。北条泰時、時房が若宮大路を中心に防衛します。その後も激戦は続きますが、夕方には義盛の子、義直が討ち死に。義盛は号泣したとされています。そこに江戸義範という御家人の郎党が襲い掛かり、義盛が討ち取られてしまいます。劇中の感動的なシーンは、実は「鎌倉殿の13人」のオリジナルだったわけです。まあ、そこにあれこれは言いませんけど。
総大将を失った和田・横山軍。義盛の子の義重、義信、秀盛は討ち死に、長男の常盛は横山党の時兼らと甲斐に逃れるも自害、他の子や孫も逃げ出し、和田合戦は終了します。
戦後
戦後、和田の本拠以外の所領と侍所別当の地位は北条義時、横山党の拠点は大江広元が手に入れます。これにより北条義時は政所別当と侍所別当を兼任、執権として鎌倉幕府の事実上のトップに立ちます。
和田氏は滅亡しますが、子孫が生き残っています。後で触れる朝比奈義秀は消息不明ですが、何人かの子や孫が鎌倉から逃れます。その後の承久の乱で上皇方についたものもいれば、幕府方について恩賞を受けたものも。そういう意味では根絶やしにはなっていないわけです。
活躍がなかった朝比奈義秀
和田義盛と和田合戦といえば、朝比奈義秀。キャストにも義秀の名前があったものの、正直、義盛の周りにいた誰かだったのでしょうが、まったく目立つことなく終わってしまいました。
その朝比奈義秀とはどういう人物か。義盛の三男である義偉は安房を所領にもらい朝比奈氏を名乗ります。母親は不詳ですが、巴御前との説もあります。ただし、年齢と合わないので信憑性は不明というか怪しい話です。
武芸に優れていたとされ、長男の常盛と頼家の名馬を巡って相撲対決をしたという逸話もあります。鎌倉防衛の要である朝比奈切り通しがありますが、蘇我物語には義秀が一夜で切り開いたという伝説があります。流石に信憑性を云々するまでもないかとは思いますが。
そして和田合戦です。敵方である「吾妻鏡」ですらこの合戦で大活躍したのは朝比奈義秀として称賛するほど。今回ちらっと出てきた北条朝時とも打ち合ったがすぐに撃退したという話が残っています。
義秀の奮戦虚しく、和田方は敗北しますが、彼は500騎の兵と共に船で阿波に逃れたとされています。ただ、その後の消息は不明。高麗(朝鮮)へ逃れたともされますが、真偽は不明です。そういう意味では、義経も蝦夷経由で大陸に逃れてジンギスカンになったという伝説があるくらいなので、とりあえず大陸に渡ったということにしがちというのはあります。
そんなわけで、本来大活躍したはずの朝比奈義秀はどこにいたかもわからない存在にされてしまいました。とても残念なのですが、まあ、今回の話の筋書き上、義盛以上に目立っては実朝と義盛主従の演出の妨げになるので下ないところでしょうか。
そもそも義盛の妻になったかすら不明な巴御前
「源平盛衰記」という物語では巴御前が鎌倉にれのうされた際、和田義盛が妻に貰い受けて生まれた子が朝比奈義秀と記されています。ただし、吾妻鏡によれば義秀は木曾義仲滅亡時にはすでに9歳とのことで、年齢が合わない上に、他にそのような記載はまったくありません。義秀の生まれはもちろん、巴御前を妻にしたという話も源平盛衰記にしか無い話のため、創作では無いかとされています。ただ、鎌倉に連れてこられた巴御前が侍所別当である和田義盛の預かりとなっていたという可能性はなきにしもあらずとのこと。
そのように非常に歯切れの悪い巴御前。そもそも鎧をまとって合戦で女武者として活躍したという話自体が源平盛衰記にしか無い話とのことで、そこからも疑問が呈される存在です。ただし、女性が戦に出てくること自体は当時もあったとのことで、まったくの創作であるかもまた不明という状態です。
番組後のミニ歴史コーナーでは巴御前が91歳まで生きたとさも史実かのように語っていますが、これも源平盛衰記にそういう話があるというだけで、真偽は不明です。
文官のくせに強い大江広元
なんか、大江広元って北条政子を意識してますよね。今回も実朝が忘れてきたという髑髏のために渦中の御所に単身で潜入し、和田軍の兵士を数名切り伏せています。いや、大江広元って文官なんですけど。正直、このシーン要る?って感じでしたが。
今回赦された北条朝時とは
今までちょこっとだけ出てきていた北条朝時(ともとき)。義時の次男です。母は姫の前(比企氏)とされています。「鎌倉殿の13人」ではあまりはっきり描かれていませんが、実はスキャンダルを起こしています。
1212年、20歳の朝時は将軍御台所の女官のもとに忍び込んで露見。実朝に怒りをかったために義時から義絶されて駿河で蟄居させられたのです。ただ、和田合戦の際に義時に呼び戻されたと言われています。「鎌倉殿の13人」でも、泰時と会った際にその旨伝えています。が、今回のラスト近くでは「なぜ戻ってきた」みたいなことを義時から言われています。いや、あんたが呼び戻したんだろと思ったのですが、さて、どういう扱いだったのか。朝時が勝手に戻ってきたのか、単なる脚本の混乱なのか判断がつきにくい描かれ方です。
史実では御所での一戦で前述の朝比奈義秀と一線交えるもなんとか生き残ったり、市街戦でも活躍します。その結果、幕政復帰となるのですが。その後、父、義時や兄、泰時とは不仲説もある中、不在の朝時邸に強盗が入った際には泰時が駆けつけ、朝時が子々孫々までの忠誠を誓ったとの逸話も。ただ、京では「泰時と朝時は疎遠」との見方が一般的だったよう。
北条時政の名越邸を継承したことから名越朝時と名乗ったともされ、北条一族の中でも有力な名越流の祖とされれています。なお、義時を祖とする得宗家に反抗的で北条氏身内の最大の反得宗勢力とされているのが名越氏です。次男ではありますが、正室の亀の前の子である朝時はこの時代では本来は家督を継いでいてもおかしくありません。そういう意味では思うところがあったのかもしれません。
義時の後継者ですが、泰時は「鎌倉殿の13人」では義時と八重の子とされていますが、史実かどうかは怪しい話。この説を挙げる本作の歴史考証担当の坂井氏も想像の話であるとしているくらいです。まあ、その時点での正室は伊賀の方(のえ)なので、その意味では伊賀の方の実子、北条政村が最有力者になります。
しかし、北条政子によって泰時が執権に就任、伊賀の方とその兄は処罰されます。北条政村は罪には問われず、その後執権にも就任。得宗家への忠誠を誓います。この辺り、「鎌倉殿の13人」では政子が「八重の子だから」とか言い出しそう。
京に接近する実朝と鎌倉御家人たち
というわけで、鎌倉随一の忠臣、和田義盛の最期により、実朝はますます御家人、北条氏を信じられなくなり、西のお方こと上皇へと接近することに。頼家の時にもそんなことがありましたね。鎌倉をまとめようとするたびに、帰って源氏将軍との仲が拗れていくという。
政子の「あなた(義時)の思った通りになりましたね」という皮肉に対して、義時が思った通りになんてなってないと返しますが、確かにある意味最悪の事態とも言えます。時政も義時も実朝を利用しようとして結局はうまくいかなかったわけです。その点、ある程度頼家をコントロールしていた比企能員は実は北条氏以上に有能だったのかも、と思いましたが、頼家も末期は御家人不信に陥り、暴走がちでしたね。どちらにしろ、鎌倉御家人と源氏将軍たちとの関わりはなかなか一筋縄ではいかなかったのは確か。
そして残り1ヶ月ちょっとのラストスパート。残すは実朝事件(1219年)と承久の乱(1221年)でしょうか。実朝事件は頼朝の死などと共に仔細がわかっていない事件で、諸説いろいろ言われている事件です。逆に言えばどうとでも演出できる話ではあるので、「鎌倉殿の13人」ではどのような筋書きにするのか。まあ、今の流れだと例によって義時が「鎌倉のため」で引き起こしそうな勢いですが。
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