「鎌倉殿の13人」第6回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第6回。敗走した頼朝が安房に逃れ、そこで北条や三浦と再会、再起を目指すという流れです。まあ、案の定、北条と関係ない由比ヶ浜の戦いとか、衣笠合戦はサクッと一言で片付けられました。ああ、由比ヶ浜の戦いは少し描かれました。
義時と頼朝の決意
今回の見どころは、やはり終盤の宗時が死んだらしいことを知った時政が義時に北条を率いることを伝えたシーン。そして、義時がまるで宗時が乗り移ったかの如く頼朝を消しかけ、頼朝がそれに応えるシーンでしょうか。
まあ、そこら辺は良いのですが、例によってツッコみたいところが色々合ったので、またまた三浦の視点で補足していきます。
今日のツッコミ
比企能員を姑に頭の上がらない人と思わないでください
まず冒頭。まるで嫁と姑の板挟みになっているかの如きが佐藤二朗演じる比企能員。視聴者の中には頼りない婿殿とでも捉えている方もおられそうなので、ちょっと弁護しておきます。
まず、比企尼が頼朝の乳母であることは劇中で触れられていたかと思います。が、比企尼と能員の関係はあまり触れていなかったかと思います。能員は元々比企尼の出身である比企一族の出身ですが、比企尼の子供ではなく猶子です。大雑把に言えば後継指名した養子です。比企一族の頭領は亡くなった比企尼の夫であり、その立場を相続しているのが比企尼です。ですので、比企尼が大きな影響力を持っているのは当然で、彼女が猶子である能員や、他の縁者を使って頼朝を支援できたのも、その立場を使ってのことです。
これは、頼朝の死後に北条政子が尼将軍として影響力を保持したのと同様です。別に北条政子だけが女性ながら権力を持ち得たのではなく、平安末期〜鎌倉初期は女性も相続者として力を持ち得たのです。江戸辺りの封建制や社会と同列視して女性は弱い立場と思ったら大間違いです。
由比ヶ浜で暴走したのは和田義盛ではなく弟の義茂
石橋山の戦いに間に合わなかった三浦を追撃した畠山と三浦一族が戦ったのが鎌倉・由比ヶ浜の戦いです。劇中で「小坪」という地名が出てきましたが、現在の逗子市の鎌倉寄りにある漁港があるところで、鎌倉と逗子の間の山間の場所となります。
畠山重忠の母は三浦大介義明の娘であり、妻は北条時政の娘です。つまり、三浦義澄の義理の甥であり、三浦義村の従兄弟であり、北条義時の義理の兄弟になります。
劇中でもあったように、元々同じ坂東武者でもあり、上述のように親戚関係であるのでそのまま合戦をせずにお互いに引き上げる段取りがついていました。が、劇中では和田義盛が勘違いして弓を射かけてしまいます。ただ、実際には義盛の弟の義茂が義盛の危機と勘違いして騎馬で突っ込み、それを救おうと義盛が続いたことでなし崩しで合戦に至ったとあります。事実上の不意打ちとなったために畠山方にかなりの犠牲が出たようですが、反撃で三浦方も相応の被害が出たようです。
また、劇中では義澄、義村のすぐそばに義盛が居たような描かれ方(その割に大声で伝えても伝わらないという不思議)ですが、実際には全然違う方向です。そりゃそうです、いくら馬を返そうとしていたとしても、何の警戒もなく背中を見せた上で矢を射掛けられるほど畠山も間抜けではありません。また、小坪あたりにいたのは義盛の軍で、三浦の本隊はその先の城に居たとされています。
由比ヶ浜の戦いについては、以下の記載が図面付きで分かりやすかったです。
尺の都合や演出の都合で歴史を変えたのか、そもそも何も調べてなかったので史実と齟齬が出たのか分かりませんが、今後も「鎌倉殿の13人」はあくまでフィクションであることを胸に刻んでおく必要がありそうです。
安房で頼朝らと合流する時政、義時父子(えっ?!)
一方、甲斐の武田信義に援軍要請に向かった時政、義時父子。信義に院宣を持ってこいと言われて引き返します。え?!何それ。
実際には北条父子は駿河で武田軍と頼朝軍が合流するまでは、武田軍に加わっていたようなのですが、なんで、残党狩りをしている大庭軍の懐に戻ってくるのでしょう?挙句に、なぜか時政は義村が頼朝を迎えるために用意した船に乗って安房に行ってしまい、当の頼朝は義時と共に小舟で安房に向かう羽目に。
まあ、演出の都合上、房総で体制を整える頼朝の近くに義時がいたことにしたかったのでしょう。物語の主人公なのに、上総広常の説得の時は甲斐にいて無関係でした、では格好がつかないでしょうから。
今回の最後の方で上総広常への使者として和田義盛が向かう際に頼朝の命で義時がついていくことになりました。次回予告から見て次週のメインは上総広常をどう説き伏せるかになるかと思いますが、そこで義時が大活躍するのでしょう。いなかったはずなのに(笑)。
褒美の前借りを頼む和田義盛
衣笠合戦で敗走した三浦一族が安房で頼朝と合流。その際、畠山を畠山を絶許と豪語する和田義盛ですが、義時に説かれて頼朝が顔を出した際に「侍大将にしてくれ」と褒美を要求して皆に笑われるシーンがありました。これ自体は、平家物語にも登場するお話です(安房に向かう船上で願ったという話もあったような)。
実際には侍大将ではなく、侍所別当です。作中でもしれっと「別当にしてやる」と頼朝が言っていましたが、別当とは責任者のことです。頼朝が幕府を開いた際に、和田義盛は戦功によってこの時の約束通りに幕府の侍所という軍事部門の別当(長官)に就任します。
一方、北条から見れば、鎌倉にことあればすぐ隣にある本拠地、三浦から兵力を一挙に投入できる(永井路子氏はその著述の中で地の利の三浦、血の利の北条と書いています)上に、幕府の軍事部門を一族の和田義盛を通じて掌握している三浦一族は目の上の瘤でした。
本作ではなぜか親友扱いの義時と義村ですが、その義村こそが生涯打倒北条を誓い、時政、政子、義時を相手に権謀の限りを尽くしたことを知っている身としては、いつ変心するのか、何がきっかけなのかは今後の気になるところです。
武田信義と源頼朝
作中で頼朝は信義を頼るくらいなら死んだ方がマシだと言い放ち、その信義も「頼朝が下に付くなら」と条件をつけるというライバル関係の武田信義と源頼朝。どちらも源氏の一族ですが、どういう関係性でしょうか。作中ではあまり触れていませんね。
武田信義は頼朝より20歳近く年上です。甲斐武田と言えば武田信玄が有名ですが、信玄は信義の子孫です。
頼朝と信義の祖先を辿って行き着くのは源頼義という人で、988年生まれ、1075年没です。その長男が八幡太郎義家であり、その子孫が頼朝です。一方、三男の義光の子孫が信義です。頼朝から見れば自分こそが嫡流であって本家筋であり、信義は分家に過ぎないという考えでしょう。一方の信義から見れば頼朝は年下であり、しかも平清盛の情けで生きながらえた流人であって、自分こそが源氏の頭領という思いがあったのかもしれません。
なお、信義が時政に命じて持って来させようとした院宣。でも、頼朝が坂東統治の大義名分に使ったのは以仁王の令旨であり、それは信義も得ているはずなのですよね。
さらに言うと、以仁王の挙兵に味方した源頼政は源氏でも平家についた人で、平家の指示で伊豆を治めていました。しかし、頼政の挙兵によって伊豆の支配者が変わったことや、以仁王の令旨を受け取った源氏に対する追討令による坂東武者の中の源氏よりと平氏よりの緊張関係の悪化もあって、そもそも頼朝のために坂東武者が挙兵したわけではない、と言う一面もあります。
今回、和田義盛がもはや頼朝の動向は関係ないと豪語していましたが、そもそも坂東武者にとって頼朝は神輿であって、頼朝にとっての令旨が坂東武者にとって頼朝であっただけに過ぎません。源氏と坂東武者は単なる主従関係ではなくて、お互いに相手を利用した面があります。それこそが「御恩と奉公」とも言えるかと思います。坂東武者が欲しいのは自分の所領の支配権のお墨付きであって、自分にそれを与えてくれる人物を支持しているに過ぎません。それは平家方の大庭景親や伊東祐親も同じです。
なんか、本作は戦国時代や江戸時代あたりの主従観で彼らを捉えているような気がして、先行き不安になります。
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