「鎌倉殿の13人」第9回・補足

趣味,大河ドラマ,鎌倉時代,鎌倉殿の13人

源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第9回。サブタイトルは「決戦前夜」です。が、富士川の戦いまで終わってしまいました。源平の決戦の前夜と言う意味?

その辺りがよく分かりませんでしたが、相変わらずツッコミどころ満載でしたので、今回も主に三浦一族の視点で補足していきます。

富士川の戦い

伊藤祐親の最期

先に八重のことを書いておくと、本作ではなぜか御所で働くことに。

史実ではそもそも実在したかも不明であり、頼朝との間に子ができた話はありますが、その後のことは伝わっていません。政子は後に前回、前々回に登場した亀の前の件でブチ切れるので、懐の深さも何もありません。正直、そこまで掘り下げるような人物でもありません。まあ、三谷氏にとっては何か琴線に触れるものがあったのかもしれません。次回もまだ八重が登場するようですし。

さて、その父である伊藤祐親です。祐清と共に駿河に向かって平家軍に合流しようとしたが捕まったとあるのが劇中とは異なる部分です。その後、三浦義澄に預けられたのは劇中の通りですが、結局、自害してしまいます。そこは描かれないようです。

頼朝と時政

時政のあまりの頼りなさに罵倒する頼朝。それを後悔して、坂東武者との架け橋になってほしい、とか言っていました。ドラマ的には良いシーンではありますが、はてさて、現実に頼朝にとって時政が本当に必要かどうか。

そもそも、時政、義時父子はこの頃は甲斐源氏の武田氏の下にいて頼朝麾下にいなかったことは以前にも何回も書いている通りです。そこは置いておいたとして、頼朝には常にそばに控える安達藤九郎盛長がおり、その関係者であり頼朝の乳母でもある比企尼がいます。そしてその猶子で後の13人の一人でもある比企能員もいます。

彼らがそもそもずっと頼朝を支えてきたのであり、坂東武者とのつながりは十分です。伊豆の一豪族に過ぎない北条時政よりもよほど大きな後ろ盾です。実際、頼朝の長男の頼家の乳母や周辺の側近には比企氏が多く、北条氏は含まれていません。頼朝にとっても北条氏はその程度の存在であったことがわかります。

富士川の戦い

で、前夜と言いつつ富士川の戦いです。有名な水鳥の羽音が、実は北条時政がやらかした結果だったとは…。いや、面白おかしくしたかったのかもしれませんが、ちょっと呆れてしまいました。

少し、当時の状況を整理します。劇中で平家軍は5万とも7万とも、と言う報告がありました。実際、各種資料でも7万の兵力を平家方が集めたとあります。ただ、そこには京から駿河に向かう途中に集めた兵力も含まれており、その中には武士とは名ばかりの兵も含まれていたとか。

また、7万と言ってもそれが一団になって富士川に布陣していたわけでもなく、7万の先頭集団の一部が富士川にいただけとか、現地を知っている駿河の目代が武田氏に敗北しており、源氏の勢いを恐れて士気も低く、富士川にいた平家軍は4000とも2000とも言われています。

そして、有名な水鳥の羽音を源氏軍の奇襲と考えて大混乱になって逃げ帰ったという話。これも諸説あり、夜襲を察知したが上記のように兵力差も大きく、現地の親平家豪族も壊滅している状況では戦えないと撤退した、とも言われています。まあ、多くの当時の書物に水鳥の件があるので、少なくともそういう話が巷で広がっていたのかもしれません。

なお、そもそも平家が追討の対象にしたのは武田信義であり、富士川の戦い自体が平家対甲斐源氏との解釈が現在では有力だそうです。

計算が得意なはずなのに計算ができない義時

呆れポイントその2が、義村にどうにかしたいなら考えろと言われて義時が上総介広常に掛け合う場面です。各豪族の兵糧をまとめて七日分あったら、それで京まで攻め込もうという話を持ちかけますが、正直、戦を知らないとしか言えません。そもそも、平家の拠点は京ではなくてその先の福原です。さらに後の源平合戦では壇ノ浦まで引きずることになる訳で、7日で京まで行って平家を討つというのがいかに現実味がないかが分かります。

まず、鎌倉を出て黄瀬川までに頼朝軍は2日かかっています。そこから京まで7日で向い、戦をして、平家を滅ぼすと言うのが現実的だと考えられるならただの馬鹿です。京からの帰りにだって兵糧は要るわけですが、現地調達でもするつもりだったのでしょうか。そもそも、千葉はもう兵糧は尽きたと言っており、三浦も数日しか持たないと言っています。上総介広常の手持ちの兵糧がどれくらいかわかりませんが、劇中では2万くらいいると言う上総軍の兵糧が誰よりも必要なのはわかるはずです。それをさらに他の豪族にまで融通しろとか、この時点の頼朝軍では不可能かと思います。あくまで寄せ集めの軍であり、兵糧も各豪族の持ち出しなのですから。

実際、頼朝の西進策に対し、上総、千葉、三浦が反対したとあります。実際に兵を動かす各豪族が動かなければ、独自の兵力を持たない頼朝にはどうにもできません。義時が偉そうに戦は勢いが大事とか言ってましたが、実際には合戦の経験がない義時が、平治の乱に従軍している義澄世代に合戦の話で勝てるわけがありません。それは、実戦経験のないお公家さんである頼朝も同様です。

時政が所領や一族のために坂東武者は命を張っている、と叫んでいましたが、まさにその通りです。義澄と殴り合って少しは気合が入ったのでしょうか。

まあ、そもそも駿河、遠江には武田信義や安田義定といった甲斐源氏が進出しており、頼朝がどんなにいきり立っても彼らを置いて京に向かう事などできないのですけど。

第1回あたりで金を数えるのが好きとか言ってたような気がしましたが、その程度の計算もできないようでは困ります。

合戦と頼朝

考えてみれば幕府を開いたのは鎌倉幕府の源頼朝、室町幕府の足利尊氏、江戸幕府の徳川家康が居るわけですが、尊氏や家康が自ら何度も戦ったのと比べると、頼朝はあまり合戦した話がないのが他の二人との違いでしょうか。もちろん、立場上総大将となったことはありますが、頼朝自身が軍を率いて戦ったという印象があまりありません。

武家とは言ってもはんばお公家さんみたいなものですし、ほとんどが流人生活ですから実際に軍を率いて戦ったこともないですから、当たり前ですけど。もっとも、それを言うと戦を知っているのは三浦義澄の世代まで。北条義時や和田義盛、三浦義村は戦の場に出たことはなかったでしょう。北条時政は世代的には戦を知っている世代のはずですが、なにしろ半生が不明です。元々在京だったのではと言う話もあるし、ちょっと分からないですね。本作では石橋山の戦いの後で頼れる面を見せていましたけど。

そんなわけで、武家という名のお公家さんの源平のトップ達と、実際にあちこちで戦働きさせられていた地方豪族、特に義朝の元で前九年、後三年の役、平治の乱を経験している坂東武者では踏んでいる場数も違うかと思われます。

平家は京を抑え、朝廷を抑え、それで日本中が動くと考えました。実際、地方に自分達の息が掛かったものを送り込み、坂東における大庭や伊東のように現地豪族を取り込むことで地方も支配下に収めつつありました。が、実際はそれが坂東武者を始めとした地方豪族の反感を買い、富士川の戦いの後も各地の反平家勢力の挙兵に悩まされることになります。現地の豪族を無視してあまりに自分たちの都合だけで地方統治を進めようとしたためでしょう。頼朝は打倒平家の過程でそれを十分に学んだと考えています。

もっとも、のちに頼朝も京指向になり(と言うかそもそも京指向)、坂東武者との溝が生まれる中で、不審な死を遂げるわけですが。

実は平氏の坂東武者たち

坂東武者たちの有力者は実は桓武平氏の末裔を名乗っており、そう言う点では源氏と縁が深いものの平氏だったりします。もちろん、平家と同じ平氏と言っても系統が違いますけど。頼朝に逆らった大庭氏も、頼朝に従った上総、千葉、三浦、畠山氏も桓武平氏で坂東八平氏と呼ばれます。北条もその系統とは違いますが桓武平氏です。そういう意味では、源平合戦は平氏(桓武平氏)と平家(伊勢平氏)の戦いでもあります。

坂東の有力豪族である坂東八平氏と北条氏は違う系統であることからも、北条時政が頼朝と坂東武者の架け橋にはならないことがわかります。