「鎌倉殿の13人」第25回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第25回。頼朝の最期が描かれました。
巨星、墜つ
まあ、あまり大物感はなかったですけど。
頼朝の最期
本編の後の解説コーナーでも触れられていましたが、頼朝の死因には諸説あります。基本的には当時の京などでは病死という扱いで、何人かの公家が日記にその旨を残しています。
肝心の吾妻鏡はこの頃の記載が失われており、頼朝の死を含めて不明な点が多いです。解説コーナーでも触れていた落馬の話は、かなり後の部分で「かつてそういうことがあった」という振り返りの形で書かれています。
本大河でも最後に右半身が動かないような描写もあったり、耳鳴りなのかなんなのか、頼朝にだけ聞こえる不吉な音の描写があったりしたので、脳梗塞等の脳血管系の病気を原因とする説をとっているのかと思われます。
ただ、あの感じだと落馬した時点で亡くなったか、亡くなったがために落馬したかのようですが、吾妻鏡の記述は違います。落馬したのが1198年12月27日で、翌1199年1月11日に出家し、同13日に亡くなったとされています。
ただ、この出家は本当に頼朝の意思なのかは微妙な感じがします。当時のケースでは亡くなる前に出家したことにするケースがあった様に思います。また、後の事を調整するために落馬時には亡くなっていた頼朝の死を公表するのは京の朝廷と調整が済んだ後の年明けにしたというのもないことはなさそうなので、本大河の落馬時に死亡していたという話も全くないとは言えないとは思います。
死因の一つに義経の亡霊を見たというのもありますが、病気の影響で何らかの幻影を見たことはあり得るが、それは病気が死因であって、亡霊が死因とは言えないという説もあります。吾妻鏡の記録がなく、京の公家の日記の「病死」ということしか分からないので、諸説唱えられてはいるものの確証はないという状況になってます。
頼家と、その妻
今回、頼家の妻(正室)をどうするかという話もありました。
突然、頼家が源氏の血筋の娘を妻(正室)に迎えたいとして北条義時に相談していますが、乳母夫である比企氏になんの相談もないというのはちょっとおかしい気はします。まあ、本大河ではすっかり正室気取りの若狭局の父親である比企能員に相談しにくいというのはあるでしょうけど。
実は頼家の正室が誰なのかはこれまたはっきりしていません。2代将軍の御台所がはっきりしないというのもおかしな話ですが、これまた吾妻鏡が都合の悪いことを隠蔽している疑惑があります。
頼家の長男である一幡は比企氏の出である若狭局の子ですが、その弟である(実朝を暗殺した)公暁の母親はこれまた諸説あります。今回話題になった足助氏(加茂を名乗っていましたが、姓は足助の様です)の娘である辻殿とも、若狭局とも、三浦義澄の娘とも言われています。
ただ、頼家死後に家を守ったのは辻殿とされている様で、そのため正室扱いになったという説もある様です。ただし、これにも各種の反論、批判があってこれが正しいというものはない状態です。
前にも書きましたが、鎌倉時代は女性も相続します。北条政子が頼朝の後に力を保っていたのも、後家としての影響力を有していたためです。これは比企氏が比企尼の意思で動いていたのと同様です。比企能員が頼りないためではありません。
結局、勝てば官軍の北条氏は、負けた比企氏をいくらでも悪人にできる立場なわけで、頼家の後継が若狭局との子である一幡であったことからしても、少なくとも頼朝存命中の正室は若狭局であったと思われます。
ちなみに辻殿の父親は足助(あすけ)重長という人物で、その妻が頼朝の叔父にあたる源為朝の娘とされています。なので、源氏の一門と本大河では言っていましたが、ちょっと無理がある気がします。
あくまで足助重長の孫であって、為朝の孫と言っても外孫になります。それを源氏の血を引くとは言っても、源氏の一門とは普通言わないでしょう。
まあ、本大河では伊東祐清の娘婿である三浦義澄や北条時政が伊東の一門扱いだったり、北条の娘婿である畠山重忠や稲毛重成が北条の一門扱いだったりする世界観ですので、今更の話ではあります。その一門扱いの重忠と重成は共に時政の謀略で命を失うのですから、皮肉なものです。
金剛改め頼時
北条義時の息子の金剛はオープニングのキャスト紹介では頼時になっていました。後の北条泰時になります。
この「頼」は当然頼朝の一字を賜ったものです。元服したのは1194年とされ、範頼が処分されてから頼朝の2度目の上洛の間になります。初代将軍の一字を賜ったのに、その字を「泰」に変えた理由は不明ですし、時期もよくわかっていませんが、吾妻鏡によれば1200年までは頼時で、1201年から泰時になっている様です。時期的には梶原景時の失脚から頼家が征夷大将軍になる頃となります。
ちなみに、今回頼朝を危うく暗殺するところだった北条五郎時連ですが、1202年に時房に改名しています。北条家で改名ブームがあったのでしょうか(まあ、時房の改名には平知康という人物が関わっています。後白河法皇の側近として丹後局とセットで出てきていたあの人です。義経との絡みで後白河法皇に遠ざけられた後、本大河では描かれていませんが鎌倉で頼家の蹴鞠相手になっていました)。
範頼事件と頼家失脚の類似性
本大河では範頼が京の都に自分が鎌倉殿になる旨を伝える手紙を送って頼朝が激怒したことになっています。ただ、頼朝死亡の誤報に対して範頼が政子に「自分がいるから大丈夫」と言ったことが怒りを買ったという話はあっても、範頼が京の朝廷に手紙を送ったという話をあまり見かけないのですが、これどこかに資料があるのか、それとも本大河のオリジナルなのか。
ただ、これと似た様な話が後に頼家と時政の間で起きています。頼家が一旦危篤になった際、時政は助からないと見て頼家は出家して弟の千幡(実朝)が鎌倉殿になるという手紙を送り、奇跡的に復帰した頼家が激怒するという話があります。これは京の公家の日記に残っている話です。
なぜか時政のエピソードが範頼に転嫁されてしまっている感じですが、はてさて。
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