「鎌倉殿の13人」第26回・補足

趣味,大河ドラマ,鎌倉時代,鎌倉殿の13人

源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第26回。第一部完、という感じ。来週は選挙特番で休みですし。しかし、てっきり前回のラストでお亡くなりになったのだとばかり思っていました。

色々おかしい、鎌倉殿の代替わり

今回は頼朝が死の床についてから代替わりするまでのドラマを描いています。義時が政子に後家として治めるように進めたり、その政子を置いて鎌倉を離れようとする義時を政子が引き留めるシーンはなかなか見応えがありました。

ありましたがが…そこに至る過程が、問題ありまくりだったような。

鎌倉殿は朝廷とは関係ない

途中、大江姓にまだなっていない中原広元が頼家が「鎌倉殿」になるのに朝廷工作が必要とか口走ってましたが、そんなわけはありません。実際、頼朝は鎌倉入りしてすぐに独自で「鎌倉殿」を名乗っています。それと朝廷の任官は別の話です。実際に頼家も頼朝も鎌倉殿になったのと征夷大将軍就任はかなりずれています。

実際のここまでの昇進の時期を見てみましょう。

西暦日付内容
119712/15従五位下 右近衞権少将
11981/13讃岐権介(兼任)
119811/21正五位下に昇叙(右近衛権少将・讃岐権介はそのまま)
11991/20左近衛中将に転任
頼家の1199年家督相続までの官位

喪中に昇進できないという話をしていましたが、実際に頼家が左近衛中将に叙任されたのは頼朝が亡くなった13日より後です。実は18日には頼朝重篤の噂が京にも届いており、20日には正式な死を知らせう使者も着いていたものの、前にも出てきた源(土御門)通親が自身と頼家の昇進を知らぬふりしてしれっと通したという話があります。

それに有名な藤原定家が猛反発したとか。この辺りは京の公家の日記に残っている「事実」です。その辺りが次回以降描かれるのかしれっとスルーされるのかはわかりませんけど。

とにかく、この頼家の昇進自体は源通親が自身の政治力を守るために鎌倉に恩を売ったとされています。別に、頼家が鎌倉殿に就任するために必要だったものでもありません。ですので、慌てて任官工作をする必要性もないです。

全成は鎌倉殿に成れるのか?

今回の話の争点が、牧の方(りく)が時政を焚き付けて進めた全成の鎌倉殿就任の画策です。が、実際、そんなことが可能だったのでしょうか。

正直、全成を鎌倉殿に推そうとする動きは史料にはありません。まあ、京の公家の日記にはそこまで詳しい話が伝わることはないでしょうし、吾妻鏡は北条得宗家に都合の悪いことは書きません。ただ、他の史料でもあまり聞いたことがないので、なかなか大胆な脚本だと感じます。で、実際どうなのでしょう。

例えば、後に織田信長に討たれて有名になる今川義元は出家していたのに還俗して今川家を継いでいます。ただ、その時は兄二人が同時に亡くなっており、彼らにも子がいなかったという事情があります。最初から出家しており、頼朝自身の子がいる今回とは話も違います。

頼家は若いと言っても一応元服していてもおかしくない18歳ですし、すでに従五位下に任官もして、富士の巻狩りで事実上の後継者として扱われているのですから、いきなり出家の全成が後継候補になるというのも時政の強引が過ぎます。この時点の北条家がそこまで強引に進められないでしょうし、実際に吾妻鏡ですらそのような話は書いていません。

それどころか、本大河では所々登場する全成ですが、実は吾妻鏡では頼朝時代に全成が出てきたことはなかったそうです。彼が出てくるのは後に頼家に誅殺される際です。ここからは完全に憶測となりますが、北条に連なるゆえにターゲットにされたものの、全成を誅殺したところで北条側が激しい反撃をしてくることを予想していなかったと考えられます。手痛い反撃をしてくるほど北条が全成を大事にしていたなら、そもそも頼家も乳母夫である比企能員もそう簡単には手を出せないでしょう。その程度の小物だったと考えられます。

ただ、妻であり、政子の異母妹である阿波局(実衣)はそうもいかなかったらしく、頼家・比企側が阿波局の引き渡しを要求したものの、政子は拒否しています。本大河では今回、政子と実衣の仲が拗れてましたけど。ただ、引き渡されなかった阿波局はその後吾妻鏡にも大した出番はなく、政子・義時を持ち上げる道具に使われただけ、という可能性もあります。

なお、全成は出家していますが御家人として現在の静岡県にある阿野荘を治めており、阿野全成と名乗っていたようです。つまり、源ではありません。
御家人の身分でありながら頼朝の死後、後継の頼家がいる中で全成が鎌倉殿というのはあり得ないと自分は考えます。任官した記録も、何らかの官職に就いた記録もありません。中原広元が本大河では一度全成が継いで後に頼家に継がせては、という折衷案を出しますが、正直、それは通らないと思います。
何より、本大河では広元自身が頼家の任官工作をしようとしており、それを今更官職がない全成で代わりになるなら、そもそも頼家の任官工作が不要であったこととなり、矛盾してしまいます。脚本上のミスですね。

実際、範頼や義経の様に軍を率いた経験もありませんし。北条が得宗として力を持ってからの公家将軍なら軍を率いた経験は不問でしょうが、さすがに2代目鎌倉殿に軍を率いたこともなければ、武人でもなく、官位もない人間を据えるのは難しいでしょう。

割れたのは鎌倉ではなく北条

予告では頼朝の死で「鎌倉が割れる」と煽っていましたが、実際には北条家が政子・義時と、時政・牧の方に割れました。もっとも、政子自体は頼朝の後家として源家の最長老としての地位を持ち、本来は北条家よりも源家を優先しなければならない立場です。
これは比企尼が猶子の能員やその妻に何度も頼朝への肩入れを止めるように言われたのに、比企氏として頼朝を支持し続けた関係と似ています。比企氏の指導者はあの時点では夫の死後後家となって比企氏をまとめる立場になった比企尼であり、その尼の猶子である能員であっても尼の意向に沿わざるえなかったのです。尼の後ろ盾があってこその能員の地位なので。頼朝亡き後の源家は政子が指導する立場になります。今回、義時が説得していたのはそういうことです。

一方の義時もテロップでは「北条義時」ですが、実際には北条の分家扱いの江間義時です。本大河にはまだ出てきていない(11歳ですが)政範(時政と牧の方の子)が北条の後継とされ、彼が若死した後は五郎時房(今は時連)が本来の北条の跡継ぎとされています。そういう意味では、北条家と源家が割れたとも言える様に思います。
実際、この後に政子と義時は時政と牧の方を追放することになります。

第二部はどうなるか

来週の選挙特番を挟んで、その翌週から頼朝の死後の話になります。特に第二部とは謳っていない様ですが、分けるとしたら頼朝の死までが第一部。そして、頼家や実朝の時代が第二部。彼らの死後、得宗家が立ち上がるところが最終章の第三部になろうかと思います。

今後、御家人達や北条家と政子・義時のどろどろした争いが続くことになりますが、はてさて、どう描いていくのでしょう。時政は実はいい人路線の様ですので、全ての責を牧の方(りく)に乗っけて、時政は良い人、政子もいい人、義時も泰時もいい人、という北条礼賛の物語を突き進むのでしょうか。

次回のサブタイトルは「鎌倉殿と13人」と、いよいよ合議制に向けての話となる様です。長らく、吾妻鏡によって暗君とされてきた2代目の頼家。本大河では北条家のために暗君とされるのか、それとも最近の傾向である実は暗君ではなかった説に因るのか。今後の描かれ方が注目されます。