鎌倉殿の13人」第48回(最終回)・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第48回。ついに物語の終わりを迎えました。

鎌倉幕府を作った男、北条義時

三浦贔屓としては癪なところですが、鎌倉幕府を作ったのは北条義時。もちろん、義時一人でつくったわけではなく、そのベースとして源頼朝が居て、北条時政が居て、鎌倉御家人が居て、京の朝廷勢力が居ます。これらが関わり合った結果の化学反応として出来上がったのが鎌倉幕府。その触媒となったのが北条義時でした。

北条義時

父である北条時政の前半生は不明な点も多いです。兄弟も時定という男の兄弟がいたようですが、他にいたのかいなかったのかもよく分かりません。ただ、「四郎」と呼ばれていたそう。主人公の北条義時も次男坊なのに小四郎でしたね。なお、義時の兄、宗時は三郎でした。もしかすると上に二人の兄がいたのかもしれません。頼朝以前の源平の戦いもありましたから、男子を亡くした家も多いでしょう。
例えば、佐藤B作さんが演じた三浦義澄も「三浦次郎」で、兄の太郎、杉本義宗が居ました。一時、三浦氏の家督を継ぎましたが、1164年に合戦で亡くなっています。その子が侍所別当、和田義盛ですので、本来三浦氏を率いていたのは和田義盛だったかもしれません。

そんな地方の一豪族の次男坊だった北条義時ですが、頼朝に見出されてやげて頭角を表し、朝廷に対抗できるだけの勢力を築いたわけです。

伊賀の方(のえ)

「鎌倉殿の13人」では義時に毒を盛ったことにされた伊賀の方ですが、一応、公式な記録にそのような話はありません。ただ、藤原定家の日記、明月記に伊賀の方と義時の娘を妻にした一条実雅の兄が義時の死の3年後に京で捕まって尋問された際、「義時の妻が義時に飲ませた薬で自分を殺せ」と述べたという話が伝わっているのみです。

この件を根拠とした義時毒殺説もありますが、なんの証拠もないのも確か。ただ、伊賀の方は自分の子である政村を義時の後継にしようとしたとされ、政子によって追放されました。なお、政村自体はなんの処罰を受けることもなく、後に7代目執権となります。この件自体、自分の影響力を確保するために政子が仕組んだという説もあります。

なお、この件では例によって三浦義村が関わっていたと言われています。政村の村は義村からもらったもの。つまり、政村元服時の烏帽子親は三浦義村です。その縁で伊賀の方が三浦義村と謀って政村を擁立しようとしたと言われています。ただ、それを察知した政子が義村を説得し、泰時が後継者となる道を定めたとも。

「鎌倉殿の13人」で伊賀の方(のえ)が毒を三浦義村から手に入れたという話になったのは、この話を元にした創作かと思われます。

北条泰時

御成敗式目を制定し、彼が執権の時には粛清が起きなかったと説明された北条泰時。なお、義時の死で執権を継いだのが1224年。翌1225年には政子や大江広元がなくなります。最後の方に出てきた御成敗式目は劇中の感じだとすぐに出た感じですが実際に公になったのは1232年。これは前年の飢饉から生じた社会不安を収めるためとも言われています。1241年に泰時死亡。

泰時の嫡男である時氏は1230年に亡くなっています。そのため、泰時にとっては孫に当たる経時が4代執権となります。ただし4年も経たずに亡くなってしまい、弟の時頼が5代執権に。その後、登場していない泰時、朝時の弟の重時の子の長時が6代執権を継いだ後、7代執権が政村になります。その次が大河ドラマにもなった8代執権、時宗です。

事実上の北条得宗家の初代とも言える泰時は基本的に美談だけが伝わっています。その治世下で確かに大きな粛清劇は起きませんでした。ただ、時氏の妻の松下禅尼は安達景盛の娘で、経時の母になります。このことから、北条氏の外戚としての安達氏と三浦氏の勢力争いに繋がり、後に安達景盛が主導して三浦一族を滅ぼすという事件につながることに。泰時時代はたまたま治っていたか、なんとか抑えが効いていたものの、その後は粛清事件がまた相次ぐことになります。

確かに鎌倉時代は以後、北条氏の天下になったように見えます。しかし、実態は外戚や今回「死んだと思った」平盛綱の子孫である長崎氏などの御内人の専横、同じ北条一族同士の勢力争いなどで衰退していくことになります。

トキューサこと北条時房

後半の北条家のアイドル、トキューサこと北条時房。泰時との関係についてはパートナーであるとともにライバルであったと言われています。粛清はなかったと言われる泰時時代ですが、実は時房の子孫に影響力を行使しています。時房の死後、後継は長男の時盛でしたが、泰時は自分の娘婿である四男の朝直を重用することで時房の一族を分断したとも言われています。美談が多く残されている泰時ですが、やることはやっていた(かもしれない)わけです。

その泰時が病を悪化させた時、時房は酒宴を開きます。泰時が病の際に酒宴を開くとは何事かと問いただされた時房は、泰時が生きているから酒宴ができる、亡くなったら酒宴もできなくなってしまうと答えたとされています。結局、泰時の死ぬ前年の1240年に時房が先に亡くなりました。

三浦義村

謀略家として知られる三浦義村は何度も身内を裏切ったとも言われ、「鎌倉殿の13人」でも北条義時の無二の友でありながら、何度か裏切ろうとしたという筋書きになっています。

ただ、実際のところはどうなのでしょう。義村の娘は泰時の妻であり、伊賀の方と義時の子である政村の烏帽子親は義村です。義村の跡を継いだのは三浦泰村ですが、名前で分かる通り烏帽子親は泰時であり、その泰時の娘を妻にしています。和田合戦と実朝暗殺事件の後には義村は駿河守に就任。承久の乱後には執権泰時の下で評定衆に就任、幕府の宿老扱いとなります。何度も義時を裏切った男がそんな要職に就けるでしょうか。その辺、「鎌倉殿の13人」では伊賀の方の毒の件で最後に義時と義村が語り合い、泰時を託された義村が以後、北条を支えると約束します。ただ、散々裏切ろうとしてきた義村ならば、あれで改心して北条に以後は従った、というのは怪しい話かと思います。

義村の子の泰村の代では北条一門衆の扱いです。後に安達氏との対立の結果三浦氏が滅ぼされたことで、義村も割りをくわされている可能性が高いように感じます。

一年の物語を振り返って

1年に及ぶ物語が終わりました。ところどころ、気になるところは多かったです。が、全体として見ればよかったと思います。なんにしても、これまであまり語られることのなかった鎌倉時代が話題になったことは大きいと思います。今までも平清盛や北条時宗などの鎌倉時代を扱った大河ドラマはあったものの、いまいち、評判がよろしくなかったのが現実。個人的には清盛は面白かったのですが。

今は幕末ものの大河ドラマも多いですが、かつてはタブーと言われていた時代もありました。しかし、今は戦国時代に次ぐ人気になっています。同じように今後も鎌倉時代を取り上げる作品が増えることを期待します。