「鎌倉殿の13人」第39回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第39回。終盤に向けての嵐の前の静けさではありますが、いろいろ火種を仕込んでました。冒頭、いきなり語りの長澤まさみさんが登場して驚きましたが、あれだけだったよう。それはさておき、例によってツッコミを入れておきます。
暗黒面に落ちた義時
先日のトークスペシャルでも段々とダークになっていったと言っていた義時。何処かからその片鱗は覗かせていたものの、なんとなくダークになっていった感じは確かにあります。が、逆に言うとどうしてこうなった感も強かったりします。何か徹底的なことがあればわかりやすいのですが、そういうのがないままに、いつの間にかダークになっていたと言うのもなんかモヤッとします。
序盤の宗時の「北条が坂東武者の頂点に立つ」という言葉を引用していましたが、あの頃の北条氏は弱小豪族に過ぎず、いささか大言壮語が過ぎます。と言うか、そもそも坂東武者なのかと言う点からして怪しいのですけど。一応、坂東平氏の末裔を名乗ってはいるのですが、実は伊勢平氏の流れではないかとも、そもそも平氏ではないとの説も。出身は京とも言われ、幕府の実権を握った割には実態がわからないと言うか、握ったからこそ正当化のために実態が分からなくなったと言うべきか。
和田義盛の上総介問題
義盛から上総介にしてほしいと請われ政子に相談する実朝。しかし、政子から親しいからと任官させるのはいかがなものかと諭されてしまいます。まあ、それはそれで道理ではあります。ただ、一般にはもうちょっと政子に意地悪い見方がされています。
政子は頼朝の頃より御家人が受領(国司になること)は禁止されていると諭したとされています。ただ、実際には作中でも触れられていたように、北条義時、時房兄弟は相模と武蔵の国司になっています。また、先日誅殺された平賀朝雅も武蔵の国司でした。まあ、平賀朝雅は御家人とは言っても源氏一門であり、頼朝の猶子なので別格ですけど。また、今回政子に諫言めいたことを伝えた八田知家は筑後守に任官しています。知家が「北条しか受領できないのかという不満がある」と言っていますが、その当人は筑後守だったりするわけです。そのため、政子の和田に対する嫌がらせという説があります。
なお、それでも諦めきれなかったのが和田義盛は大江広元を通じて正式に願いを出しますが結局却下されてしまいます。これが和田合戦の遠因とも言われています。
平盛綱
鶴丸が平盛綱とは驚きました。平盛綱は平資盛の子とも孫とも言われています。出自は不明だし、本当に平家の末裔なのかは疑問が多いところですけど。
この盛綱ですが、のちに内管領と呼ばれる長崎氏の祖となります。泰時時代は確かに彼を支えたわけですが、その後、長崎氏は得宗家から実権を奪って幕府を牛耳るようになります。源氏から実権を奪った北条氏もまた、子飼いの長崎氏に実権を奪われたわけです。
今回、義時が御家人にしようと企みましたが、結局北条の郎党(御内人)となります。そういう意味では、今回の義時が実朝を脅していたシーンはよくわかりませんね。名(御家人の地位)より実(褒美)を取ったということでしょうか。
ちなみに、北条氏と平盛綱を同じ平氏と一括りにする方もいらっしゃるようですが、それはちよっとどうかと。確かに、同じ桓武平氏の流れではありますが、平盛綱が本当に資盛の子孫ならば伊勢平氏。北条らの坂東平氏と一括りはちょっとどうかと思ってしまいます。そりゃ、ルーツは一緒と言ってしまえばその通りではありますが。ただ、上述のように実は伊勢平氏という説もあり、それを取り入れてのこのセリフなら面白いのですが、そこまで考えてのセリフではなさそうです。
公暁
頼家の子である善哉が4年の間に見違えるように成長して「公暁」になっていました。公暁は昔は「くぎょう」とされていましたが、最近は「こうぎょう」と呼ばれています。まだ「くぎょう」読みも多いようですが。「鎌倉殿の13人」では「こうぎょう」にしたようですね。
この後の終盤の鍵となるのが実朝と公暁。どういう話に仕立てていくのか楽しみみしています。
守護の交代制
今回、義時が三浦義村に語った守護交代制。こちらも千葉、三浦、小山といった有力御家人の反対で断念しています。今回の話では中途半端に終わったので次回以降その話が出てくるのかもしれませんが、来週はもう和田合戦のようなのでそんな暇ないような。でも、ああやって取り上げた以上、このまま終わるとも思えませんけど。
ただ、これは義時の企みではなく、実朝の考えだったとの説もあります。いずれにしろ、作中の義時ほど、まだこの頃は好き勝手できなかったのは確かです。本当に義時が力を得るのは、和田合戦に勝利して執権になってからかと思います。
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