「鎌倉殿の13人」第29回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第29回。善児も北条宗時のことは覚えてたのですね。2代目のトウはお披露目だけで特に出番はありませんでしたが。
どこまでも義時を美化しようとする悪意
頼家も色々と考えて軟化してきているようですが、結局は義時と政子にいいようにされてしまうのですから哀れです。その責めは時政に押し付けられて。でも、善児たちを引き受けるということは、そういうことですよね。全ては鎌倉のため。とんだ理想主義者です。
瓦解する合議制
そもそも史実で13人の合議制はほとんど眉唾ではありますが、梶原景時に加え、三浦義澄も安達盛長も亡くなってしまいました。
ちなみに、本大河ではほとんど活躍もなく北条時政の悪友役という印象しかない三浦義澄ですが、本当はそれなりの実力者です。と言うか、頼朝存命時の豪族のランキングで言えば北条時政なんて政子の父であるだけで、鎌倉御家人の立場としては三浦義澄の方が上です。そのため、頼朝に対する征夷大将軍の宣下の使者からの書面の受け取りは三浦義澄が行っています。このことは北条以外には厳しい吾妻鏡でも取り上げられ、「面目絶妙なり」と記されています。
また、この頃三浦一族の総帥として事実上三浦半島を支配下に置いていた義澄はその地位を示す「三浦介」を自称しても誰も文句を言わないくらいの力を持っていました。しかし、彼は名乗りの際にただ「三浦次郎」とだけ答えます。その他、褒美を与えられた際も子の義村に譲ったりと、決して出過ぎず、謙虚な人物であったとされています。
それが素なのか計算なのかは分かりません。しかし、決して、出過ぎず、目立たず、でもいざという時には重要な任務にも応える、そんな人物だったとされています。決して、賑やかしの面白人物ではありませんでした。永井路子氏の評では鎌倉のすぐそばにある三浦を治める実力者として、他の御家人達の嫉妬を招かぬ様に控えめに振る舞っていた、となっていたかと思います。そういう意味では、何も考えてない気の良いおっさん扱いは納得いかないところではあります。その辺は、妻である牧の方(りく)に振り回されているだけのだらしのないおっさんと化してる北条時政も同様ですが。
番組後の「紀行」では義澄、義村の代では三浦は北条と密接なつながりを持っていた、と紹介されています。たあ、義村は時には北条に反する動きを示しました。結果として不利とみるとしれっと北条側に付いて一族の存続を図り続けたのが義村です。その辺りが今後どう描かれるのか。
頼家の境界裁定
今回出てきたのが土地の境界に関する訴訟に対して、半分で分けろという話。これ、頼家の悪政の実例としてよく取り上げられる話で、吾妻鏡でも触れている話です。が、実際には頼家はちゃんと現地調査に人まで派遣して裁定を下したことが記録に残っています。この件含め、頼家凡愚説は最近では割と否定されてきています。
が、今回の主人公はあくまで北条義時。北条家に都合の良い吾妻鏡全面準拠か、それ以上の悪意を持って北条家を持ち上げ、北条と敵対したものを貶めています。
次は全成が血祭りに
今回のラストシーン。時政と牧の方(りく)によって頼家の呪詛を無理矢理させられた全成の人形(ひとがた)が一つだけ残っており、それを誰かに拾われたというところで終わります。はい、次のターゲットは全成です。
しかし、時政と牧の方もひどいですね。自分達で呪詛をやらせておいて、いざとなれば尻尾切り。それは梶原景時に対する連判状での文字通りの「尻尾切り」でも明らか。拾ったのが誰かわかりませんが(善児?トウ?あるいは比企能員)、これが次回の騒動につながることは明らかすぎて伏線にもなってませんね。
なお、本大河では僧として描かれている全成ですが、駿河の国内にある阿野荘を与えられている立派な御家人です。これは吾妻鏡でも残っていることです。
ですので、正確には阿野全成となります。御家人としての阿野家は全成が誅殺されてからも残っており、南北朝時代にも名前が出てきます。まあ、源氏の血筋の割には小さな扱いですが、これはあまりに頼朝に近すぎる血のため、北条家に睨まれていたからとも言われています。
もっとも、義澄、盛長が亡くなったのは1200年。阿野全成の誅殺は1203年。今回ラストで人形が拾われた件で話が動くにはちょっと間が空きすぎるのは気になります。まあ、話の面白さ優先で強引に話を持っていきそうですが。
なぜか頼家と比企が疎遠
歴史上、少なくとも吾妻鏡は「頼家が乳母夫である比企能員をはじめとした比企氏を優遇、追い込まれた北条時政が逆襲した」としています。今回、頼家はなぜか比企氏とも距離を置いているのが不思議でした。今回終盤で比企氏出身の若狭局(せつ)との子である一幡を後継にすると決めたことで本来の流れに戻るのかもしれませんが、そうするとそのきっかけを作ったのが北条義時ということに。
ここまでの本大河の流れを見るだけでは、確かに比企能員は北条と張り合っているようでしたが、肝心の頼家は比企と北条の対立自体に興味がない様子。そうすると、いくらなんでも北条側が頼家に呪詛までかけるというのは行き過ぎなのですよね。本来の歴史からすれば頷ける面もありつつ、話の流れ的には頼家呪詛はやりすぎで、メリットもない。頼家の思惑はともかく、現鎌倉殿の頼家の乳母夫は比企能員であり、その影響力は大きいのでその勢いを削ぎたいというのは分からないではないですが、少々吹っ飛びすぎにも感じます。
結局、北条に敗れてしまった比企氏の能員以外の影響力がよく分からないところもありますが、呪詛すべきは頼家ではなく能員であるべきで、能員が亡くなれば頼家の乳母一族であったとしてもそれほどの影響力はないように感じるのは楽観的でしょうか。実際のところは歴史を正しく伝えない吾妻鏡のおかげでよくわかりませんけど。
頼家の最後が迫る
今回の話が1200年。次回で全成が誅殺されるとすると1203年5月。そして、比企の変(と呼ばれているが、実質は北条の変、ないし、時政の変)が同9月。8月放送分では追放まで進みそうです(頼家が亡くなるのは追放から1年近く経った翌年8月)。
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