「鎌倉殿の13人」第33回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第33回。頼家と、そして「鎌倉殿の13人」の暗黒面を支えてきた善児の最後。そこはまあ見事があったものの、他の部分では色々とやらかしていますので、その辺のツッコミをいつもの様に入れていきます。
一つの時代に区切りがついたものの、新たな火種が…
頼家と善児の死という表でも裏でも一区切りついた感じになった33回。ただ、今回の冒頭から終盤にかけて、次への仕掛けも色々と見えてきました。
執権別当って何?
今回、北条時政が「執権別当」になったという不思議なナレーションが入りました。え、執権別当って何?
確かに北条時政は実朝の将軍就任したこの頃、政所別当になり、初代執権にもなったとされています。が、執権別当なんてパワーワードは初めて聞きました。「別当」とはその役所の長であり、現在で言えば長官とか大臣に当たります。例えば、中原(後の大江)広元は政所別当であり、和田義盛は侍所別当です。これはそれぞれ、政所とか侍所という鎌倉幕府の機関の長官であるということを指します。
しかるに執権別当とは。別に執権という機関が鎌倉幕府にあるわけではありません。なので、執権別当というのは明らかにおかしな表現で、歴史考証の方はよくこんな台本を通したなと感心しています。後に政所別当という役職自体が執権や連署の兼任となってしまったがために、こんな訳のわからない表現になったのでしょうか。また、政所別当は中原(後の大江)広元が初代であり、後から時政が加わったという説もあります。別当自体は同時に複数が任命されることはあるそうなので、中原(後の大江)広元は政所別当、北条時政は執権別当という並び立つ存在という位置づけにしたかったのかもしれません。
まあ、そうにしてもおかしな呼称を広げないでほしいもんです。
義時、泰時と時房
義時が時房と共に頼家暗殺依頼のために善児の元を訪れた際、突然時房が「兄上(義時)にとって自分はどういう存在なのか?」とか問い始めます。いや、なんだその思春期男子みたいな発言は?
時房は義時の12歳年下で、母親は違います。亡くなった年は義時の16年後なので兄より長生きしましたが大して変わりませんね。頼家や実朝の和歌や蹴鞠の相手をしたとされています。また、京でも活躍し、後鳥羽上皇に気に入られていたとか。泰時とは8歳差でどちらかというと義時よりは泰時の方が年齢が近いです。
牧の方(りく)と時政の間に息子である政範が生まれるまでは北条家の跡取りと考えられていた様です。そのため義時は江間義時を名乗り、北条家の分家扱いになりました。しかし、政範が若死し、時政も失脚した結果、義時が北条を率いることになり、その兄を支えたのが時房です。義時死後、特に政子が亡くなってからは北条一族の長老として泰時ら北条得宗家を支え、北条家をまとめあげ、鎌倉幕府を支えることになります。泰時とは主導権争いをしていた時期もあったらしいですが、結局、執権泰時と得宗家を連署として支える立場に徹したようです。
謎の政子と阿波局(実衣)の確執
今回、実朝の教育方針をめぐって政子と阿波局(実衣)が対立していました。かわいそうなのは三好康信。これはかっての安達盛長ポジションですね。
ただ、これも少し妙な話。確かに阿波の局は実朝の乳母です。ただ、頼朝の後家である政子は源家の長老的ポジション。これは比企一族の中で比企尼が力を持っていたのと同じ。戦国時代などとは異なり、当時は未亡人も相続します。そうすると年長者である後家が実質的な総領の立場になります。それは女性であってもです。頼朝の妻である政子は頼朝を頂点とする源頼朝の家族の最長老であり、その意志を無視することはできません。ましてや、姉妹であったとはいえ御家人の妻である阿波局が源家の長老を差し置いて好きにできるはずもありません。阿波局は頼朝の弟である阿野全成の妻(妾とも)ではありますが、阿野全成自体は御家人であり、源家の一員とはみなされません。つまり、姉妹ではあっても政子は源家の長老、阿波局(実衣)は御家人の妻(ないし妾)という主従関係です。
そこは置いておいたとして、実は阿波局にこの頃一つのエピソードが吾妻鏡に残っています。比企能員の変の後、千幡は北条時政の館に居たとされます。それに対して、牧の方(りく)に悪意があるので乳母として危険を感じると政子に進言して政子邸に千幡を引き取らせたのが誰あろう阿波局(実衣)とされています。つまり、「鎌倉殿の13人」で描いているような変な確執や対立はあまりなさそうな感じです。あんな対立している政子の元に預けようとは普通は思いませんよね。まあ、牧の方(りく)の元よりはマシという考え方はあったのかもしれませんが。
時政と武蔵守と武蔵御家人
伊豆に流された頼家から武蔵守を時政が狙っていると告げられて動揺した感じだった畠山重忠と足立遠元。確かに彼らは武蔵の国人です。この後の事件の伏線を張ったものと思われますが、ちょっと無理矢理なのも確かです。
元々は伊豆の一国人に過ぎなかった北条時政が源平合戦の流れで駿河や遠江で実権を収め、相模や武蔵を狙っていたのは確かです。その過程が曽我事件や梶原景時の失脚、比企能員の変のきっかけになっているように自分も感じます。そういう意味で、武蔵の権益をめぐっての北条と畠山の対立というのはない話ではありません。実際、畠山重忠の一件は明らかに武蔵を巡っての争いでしょう。そういう意味では間違いではないのですが…。
この頃の武蔵の国司は今回、京で上皇と話していた平賀朝雅です。その前が父親である平賀義信。前回の補足でも書きましたが平賀氏は源氏の一門であり、頼朝に次ぐ地位だったりします。その地位は頼朝の兄弟である範頼や義経、阿野全成などより上です。事実上の鎌倉No.2が平賀朝雅なのです。その割には扱いが悪いですけど。徳川幕府で言えば、徳川将軍家に対する松平家のようなもの。あるいは、副将軍である水戸徳川家に近いとも言えそうな立場です。
そもそも一御家人に過ぎない畠山氏が国司になれるわけもなく、名目上の実力者たる国司の一件で時政と畠山重忠の関係悪化というよりは、実権というか実利の方での対立が原因と思われます。実際、武蔵の国司は平賀朝雅の後は同じく源氏である足利氏が中継ぎし、後は北条一門が世襲することになります。時政は武蔵国司にはなっていませんが、京に上った平賀朝雅の代わりとして国司の任を代行しています。
一方、畠山重忠は国司に代わって実際に武蔵を治めていた秩父氏の流れです。重忠の前には河越重頼という人物が秩父氏の総領として武蔵の実権を持っていたわけですが、義経謀反に連座して処分されてしまいます。なお、河越重頼と平賀義信はどちらも比企尼の娘を妻にしている婿同士です。武蔵は元々比企一族の関係者で収められていたわけですが、河越重頼の義経事件連座や比企能員の変によってパワーバランスが崩れたことによる政変のようです。もっとも、平賀朝雅も畠山重忠も北条時政の娘婿なのですが。違いは朝雅の妻は時政と牧の方(りく)の娘であり、重忠の妻は時政の前の妻(詳細不明)との娘であることです。
源仲章とは
以前に阿野全成と阿波局(実衣)の子である頼全を誅殺した源仲章。政子との絡みで実朝教育で仲章と結託していましたが、この事実を知っているのでしょうか?今まで描かれた感じでは知っていたらあんな態度は取れないと思うので、知らないのではないかと思われます。
その仲章は源とは言っても当然頼朝らとは全く違う流れです。御家人ではありますが、武士というよりは貴族です。なお、鎌倉下向は1206年ごろとされており、1203年に鎌倉に来ているのは早過ぎますね。後の実朝暗殺事件でよりによって北条義時と間違われて殺されてしまいます。
和田義盛と運慶
割と重要そうなエピソードはスキップするくせに、変なところは拾ってくる「鎌倉殿の13人」です。今回も小四郎が「あまり考えなくて呑める」と訪れた和田義盛の屋敷で運慶と再会します。その席で義盛が「運慶にいくつか仏像を頼んだ」と言ってましたね。これ本当の話。特にその後のフォローはありませんでしたけど。紀行で出てきてもよかったのでしょうが、今回は修善寺を取り上げないわけにもいきませんから、仕方ないですね。
運慶作といわれる仏像には、はっきりわかっているもの、まず間違いないと言われているもの、運慶作という説があるものの3種あります。その中でも、横須賀市の芦名にある浄楽寺には運慶作の5体の仏像が残っています。
ちなみに「青天を衝け」にも登場した前島密は浄楽寺の境内に別荘を建てて余生を過ごし、ここに墓もあるそう。また、前島密の胸像と一体になった現役の郵便ポストがあるそうです。
善児の最後
実在の人物ですら生年が不明、不詳が多いこの時代。ましてや架空の人物の善児の年齢はよく分かりません。が、初登場時の千鶴丸暗殺時点で決して若くはない感じ。それでもまあ、30代くらいだったのでしょうか。この事件の正確な時期はわかっていませんが、1175年前後でしょうか。それから28年が経過しているので、60〜70歳くらいと推測できます。鎌倉時代の60代ですから相当身体も老いているはずですが、まだまだ現役バリバリで働けそうでした。あの「一幡」の文字を見なければ…。
結局、頼家に深傷を負わされた上、弟子のトウに父母の仇として殺されてしまうことに。もっとも、善児としてはそれはわかっていたのではないかと思います。最後に弟子のトウの手にかけられたことは、ある意味本望だったのかもしれません。
ただ、個人的には最後まで悪役としての立場を貫いて欲しかったともいます。一幡に対して憐憫を覚えたり、それがきっかけで深傷を負ったり。因果応報と言えますが弟子のトウの手にかかっての最後というのも良いのですが、そういう善児も人の子だったか…みたいなエピソードではなく、梶原景時のように最後まで自身に課せられた役目を果たして欲しかったな、と。善児の最後はある意味善児にとっての贖罪や救済にもつながるようにも感じます。そういうのではなくて、あくまで悪党の立場を貫いて欲しかったかなというのが個人の感想です。
頼家の最後
さて今回のメインである頼家の最後。愚管抄では入浴中に殺されたとあります。あんな大立ち回りはなかったようです。吾妻鏡では北条得宗による簒奪正当化のために暗愚だったと伝わる頼家。しかし、愚管抄他の資料では武芸の達人であったという話も残っています。そういう意味では今回の大立ち回りもありだったのかもしれません。
結局、「鎌倉殿の13人」的には頼家はどういう人物だったのでしょう。若すぎるボンボンだっただけに坂東武者たちに翻弄された悲劇の人?富士の巻狩りでは最大の見せ場だった獲物を仕留めるシーンを泰時(当時は金剛)に奪われ、武芸の面でもあまり達者という扱いではなさそうだった頼家。なんとなく、扱いが中途半端に感じます。頼家役の金子大地さんの熱演が良かっただけに、結局、なんだったんだろうなと思ってしまいます。まあ、三谷脚本で割り食った犠牲者は「鎌倉殿の13人」にはたくさん居ますけど。
義時と泰時の関係はどうなっていくのか
今回、泰時を称して昔の自分だと告白する義時。まあ、若い頃の義時は今の泰時みたいに言いたいことを言ってなかったように思いますが。
確かに、泰時は本来北条家を次ぐ立場ではなく、それは江間義時という分家扱いだった義時も同じ。本来は宗時が継ぐはずであり、その死後は牧の方(りく)との子である政範が継ぐはずで、その政範の死後も本来は時房が継ぐはずだったかと思われます。泰時も立場的には正室の子ではないので嫡男ではなく、義時の跡を継ぐ立場ではありませんでした。
結局、義時の後は泰時が継ぐわけですが、(吾妻鏡の美化フィルターがかかっているとはいえ)理想の坂東武者だったとされる泰時。今後義時、泰時父子の関係はどうなっていくのでしょうか。今回の件はかなりの確執の原因となったと思うのですが。
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