「鎌倉殿の13人」第2回・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第2回。姉想いというか家族への想いが強い義時についに頼朝が思惑を語る第2回「佐殿の腹」が放送されました。今回も主に三浦一族の視点から補足します。

なぜ比企尼は力を持っているのか

今回、頼朝と会いたいという八重のために北条宗時が密会場所に選んだのが武蔵の比企一族の治める土地です。そこには頼朝の乳母である比企尼がいます。尼はもう夫は亡くなっており、比企尼の甥で養子(猶子)である能員になっています。頼朝に付き従っている安達藤九郎盛長と、宗時と一緒になって頼朝を担ごうとしていた伊東祐清はともに比企尼の娘婿です。序盤に出てきた山内首藤恒俊は比企尼と別の乳母の子です。

さて、その比企尼がなぜ全てを取り仕切っているのか。江戸時代の武家や、その後の日本を見ると男性社会で女性に力がないので、鎌倉時代(というか作中はまだ平安末期)も同様に思っていないでしょうか。平安・鎌倉時代初期の女性は今思っているよりも多くの力を持っていました。それは、相続が惣領制+分割相続だったからです。これは欧米の中世も同様で、いわゆるパラドゲーのクルセイダーキングスでは分割制度を分割相続から長子相続に持っていくのが鍵となっています。そして、その分割対象は女子も含みます。比企の党首の能員は比企尼の養子(猶子)ですので、比企一族には比企尼の影響が強いのです。

三浦のみならず比企の扱いも酷かった

おそらく、のちに北条一族、時政や義時と対立する坂東武者たちの扱いは今後もひどいのだろうと思います。

前回、てっきり伊東祐親に密告したのは三浦と思っていましたが、その辺りはうやむやで、三浦は大庭景親に密告していたことが判明します。これを義村は義時にいけしゃあしゃあと告げたのです。ああ、実は事態収集に動いていたのかと見直した直後、当の義村は頼朝は疫病神だから首を切って平家におくれと唆す始末。

そして、宗時が密会所に選んだ比企の党首の能員も頼朝に現時点では好意的でない描かれ方です。正直、おいおいそれはないよと感じます。

まあ、主人公は北条義時であり、後に北条と対立する比企や三浦は貶めないといけなかったのでしょう。そういう扱い方をするのはとても残念です。

きっと、家族思いの義時と対照的なクールで非常な三浦義村というのを描きたいのでしょう。確かに、三浦義村は同族の和田義盛が北条にはめられた際に、三浦一族存続のために和田氏を切り捨てました。後に「三浦の犬は共を食む」と揶揄されたのは確かです。

義時に想いを打ち明ける頼朝。え、比企の立場は?

第2回の終盤、「佐殿の腹」を明かすシーン。ドラマとしては確かに感動的で素晴らしいです。ただ、そのシーンで頼朝に「身内がいない」と言われた比企の一族はかわいそうです。比企一族はそれまで平家の目を憚りながらも伊豆に流される前はもちろん、流されてからも頼朝のために尽力してきました。

後に北条と手を組んで生き残った安達盛長はじめ、比企一族は私財を投げ打って支援していました。が、それを恩に感じていながらも「身内がいない」と言い切る頼朝。なんか、すごく比企尼や一族は浮かばれないな、と。

この背景としては、「鎌倉殿の13人」の中でも割と初期に粛清されたのが比企能員であり、それを仕組んだのが北条時政だからでしょう。北条を持ち上げる都合上、邪魔なのが頼朝を支え続けた比企であり、三浦であり、坂東武者たちです。

あと乳母の力は非常に大きいです。そのため、権力者の子供の乳母に誰がなるかは非常に重要だし、その乳母の一族はその子供が政権を取った暁には重用されることになります。後の実朝暗殺の背景には、実朝と公暁の乳母たちによる権力闘争があったという説があります。

違和感ある比企での密会

さて問題ののちの伏線のための比企一族とのやり取りですが、そもそも、密会場所に比企を選ぶことがおかしいと感じます。

まず、比企を選んだのは伊東の力が及ばないからとの立て付けです。が、そもそも、比企のいる武蔵に向かうには大庭の居る相模を超えていく必要があります。当時の相模内陸部は平家に近い大庭氏や波多野氏だのの勢力圏内です。一応流されている身である頼朝がそこを横切って武蔵に向かうというのはかなり危険だと思います。見つかれば命を取られはしないにしても平家の威をかる大庭氏や波多野氏に目をつけられるはずです。まあ、比企の動きは当然知っていたでしょうけど。だからと言って、平家方の大勢力を突っ切って武蔵に行くなんてあり得ないと思います。伊東の目を盗むために、それよりも大きな大庭のめは憚らないとか、ないでしょう。それこそ土肥のところでも良いし、伊豆権現とかの寺社勢力下で十分かと思います。

当時のパワーバランスの目安は一族の多さ

一応、作中で弱小弱小と言われる北条一族ですが、その割には伊東に盾突き、大豪族の大庭にも恐れ入らず、三浦とも同等な感じを出していて、あまり北条の弱小感を見出せないのも問題に感じます。

この当時の相続は惣領制+分割相続と書きましたが、一応、惣領を中心として一族で結束して動くのが主流です。ですので、政略結婚も含めて血のつながりの多さがものを言います。前回書いたように、当時は一族でも地名を名乗るので、一見して一族かどうか分かりにくいです。ですので、当時の一族関係を示しておきます。

北条氏:北条時政以前は不祥(一応、祖父と父はある程度確定しているが素性不明)。北条時政の兄弟といった別系統の北条一族、北条に連なる一族の存在は一切不明。北条氏の出自も不明。実は京の都から来たとも。時政の後妻が京からきているあたり、実は土着の豪族ではないのではないかという疑惑はあります。

伊東氏:元は工藤氏で、伊藤祐親は河津氏とも。前回、工藤の御家騒動が曽我兄弟の仇討ちにつながると書きました。伊東、工藤、河津といったあたりが一族です。

三浦氏:三浦半島一帯を治める地方豪族で、今でも三浦半島に残る地名を名乗る兄弟、一族が多数います。三浦、和田、大多和、芦名、佐原、等。北条の身内(時政と息子の宗時、義時)しかいない北条氏から比べればはるかに格上です。北条どころかおそらく純粋に伊東系と三浦系の力を比べたら三浦の方が上かと思います。ですので、三浦は大庭に密告したのでしょう。大庭が頼朝と北条を擁護した理由はわかりませんが、(実はあっさり忘れていた)平相国の思惑がわからなかったので、勝手に殺すのはまずいかもしれないので場を取り繕ったのでしょう。北条なんていつでもどうにでもできるという思惑込みで。

この一族の差は動員兵力の差であり、国力の差であります。北条一族だけの北条氏が何の後ろ盾にもならないのは当時の常識なのです。それでも北条を頼ったというのは、やはり、頼朝自体は京の人であり、坂東武者を頼りにすることになるにしても、そこは「身内」ではなく、今日の流れを持った北条を頼ったのかもしれません。

なお、惣領制+分割相続は鎌倉時代が進むにつれて変わっていきます。これは当初は一族が少なかった北条氏は滅ぼした坂東武者の土地を分け与えることができたものの、元寇の辺りから与える土地がなくなり、北条一族自体が増えたことによる得宗家支配への移行に伴って必然的に変わっていったのではないかと思います。

陸の道と海の道

さて、義村が義時のもとに今回も訪れていましたが、どうやってきたのでしょう。おそらく、船で相模湾を渡ってきたと思われます。当時の街道は陸路を通らず、鎌倉から三浦半島を通って房総半島に渡るものだったとされています。

また、頼朝が石橋山の敗戦後に房総半島に逃れたのも、当時の房総南部は大勢力不在で、三浦氏の影響圏内だったからという説もあるようです。後の時代でも三浦氏と下総里見氏は対立する因縁があり、それが(後)北条氏対里見氏の因縁につながります。もちろん、武蔵、相模に対抗できる千葉氏、上総氏の影響圏内に行くにはそこがメインストリートだったからというのもあります。そういう当時の人流とかをちゃんと描いて欲しいものです。

永井路子氏はその著書で平家についた相模内陸部や武蔵武士団と、頼朝についた北条、三浦、千葉、上総といった武士団の違いは、当時の流行や都の情報をいち早く得られた海の道を後者が押さえており、前者は時代の流れに気づけなかったからではないかとしています。

その辺りが描かれていないのも残念だと思います。北条宗時は単に平家憎しと思い込みだけで頼朝について世の中を変えようと思ったわけではないのです。まあ、脚本の意図としては北条家を中心としたホームドラマをやりたいだけなのかもしれません。


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2022-01-31趣味三浦一族,大河ドラマ,鎌倉時代,鎌倉殿の13人

Posted by woinary