「鎌倉殿の13人」第3回・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第3回。以仁王の挙兵から、頼朝の挙兵に至るきっかけまでとなります。今回も主に三浦一族の視点から補足します。

「の」付けの違和感

今回の大河ではやたらと名前に「」が付きます。それが「みなもとのよりとも」や「たいらのきよもり」なら構いません。が、その他の一般武士、豪族の北条時政、伊藤祐親、大庭景親、三浦義澄などにも「ほうじょうときまさ」、「いとうすけちか」、「おおばかげちか」、「みうらよしずみ」と「の」が付いています。大河ドラマは立派な専門家が歴史考証しているはずなのでまさか間違いということはないのでしょうが、いつからか普通の豪族にも「の」が付く様になったのでしょうか?少なくとも昔はそんなことはなかったのでとても違和感があります。1話から気になっていたのですが、今回改めて取り上げます。

氏と名字

そもそも、氏と名字は異なります。源とか平というのは氏(うじ)であって、氏には「の」が付きます。平安時代の有力家系には「の」が付くのは有名かと思います。「蘇我入鹿(そがいるか)」、「中臣鎌足(なかとみかまたり)」、「藤原道長(ふじわらみちなが)」、「菅原道真(すがわらみちざね)」等が有名です。

しかし、徳川とか織田は氏(うじ)ではなく名字です。例えば徳川家康の正しい名前は「源朝臣徳川家康(みなもと/あそん/とくがわ/いえやす)」です。/で区切った部分がそれぞれ名前がついており、頭から氏(うじ)あるいは本姓(ほんせい)、姓(かばね)、名字あるいは氏(うじ)、名あるいは実名(じつみょう)です。「の」が付くのは氏・本姓であって、名字にはつかないと思っていました。ですので、徳川家康は「源家康(みなもといえやす)」や「徳川家康(とくがわいえやす)」であっても、「とくがわいえやす」ではありません。これは同じく幕府を開いた足利尊氏も同じで、「あしかがたかうじ」であって「あしかがのたかうじ」ではないというのが従来の考え方です。足利も名字であって、本来は「源朝臣尊氏(みなもとあそんたかうじ)」です。

同様に北条氏の氏・本姓は「平」であって、北条時政は「北条時政(ほうじょうときまさ)」ないし「平時政(たいらときまさ)」であって、「ほうじょうときまさ」と呼ぶのは違和感があります。まあ、歴史考証しているのでしょうから、何か従来の考えを覆す新常識が判明したのかもしれません。その割にはあまり聞いたことがないのですが。

武士武士と強調するが…

また北条時政がやたらと「武士だから」、「武士の名折れ」とか言っていますが、はて、この頃の北条等の坂東武者は地方豪族であって、「武士」だと思っていたのか。

この辺りはまだ正確には解明されておらず、地方豪族といった各地の支配者が武士の起こりとする説(下から上へ)と、中央の武官が起こりで地方の豪族を影響下に置いて組織化していったとする説(上から下へ)がある様です。個人的には坂東武者が「武士」と言い出したのは、幕府ができてから今日の公家に対抗する関係上、そう主張し始めたのではないかと思わないでもないです。

以仁王の挙兵と源頼政

今回の歴史上のイベントは以仁王の挙兵です。そして、頼朝に「あれでは皆が付いてこない」と酷評され、実際に平清盛に討伐されてしまった源頼政です。

劇中では平氏の信頼が厚かったとサラリと触れられていた源頼政。源氏の一族ですが、保元の乱、平治の乱の勝ち組に付いて、平氏側の実力者として当時の源氏の中では破格の出世をした人です。源平の合戦とはいっても、源氏の中にも平氏方についた一族は居た訳です(もちろん逆もあります)。実際に挙兵するまでは頼政は平氏に信用され、以仁王の討伐の総司令官を命じられたとも言われています。頼政挙兵については諸説あり、平氏の一門に恥をかかされたとか、諸説ございます状態。

その辺りの事情を当時京に詰めていて、坂東に戻った三浦義澄(劇中では後白河法皇の密旨を頼朝に届けた、実際には三浦義澄と千葉胤頼が京から地元に戻る途中に北条館の頼朝を訪ねて報告した、らしい)を聞いて、平氏の天下も綻びが生じているということを知ったという説もある様です。劇中では語られなかった八条院(令旨を持ってきた源行家は八条院の関係者)らの反平家派との抗争で不利であった京を離れて福原に遷都しようとしていた(が、結局情勢変化で還都する羽目に)とか色々平氏の破綻の情報が一部の坂東武者には流れていたのが、頼朝の挙兵につながったとの説があります。
(第2回補足で書いた海の道と陸の道の、海の方に最新情報が伝わり、陸の方には伝わるのが遅かったので、内陸部の平家方に与した坂東武者は没落する羽目になった)

相変わらず頼朝に冷たい義村

今回も三浦義村は頼朝に冷たく、義時に対しても佐殿は疫病神と言い放ちます。まあ、結局、義時の思いつきに付いていくあたり、義時とは仲が良い様ですが。義村は京での平家の退潮の予兆を父である義澄から聞いているはずです。

あと、三浦と同族の和田をなぜか別扱いにしています。これは「鎌倉殿の13人」に三浦義澄と和田義盛の2人が入っているのと、後に和田一族を庇いきれずに三浦義村が和田義盛を切り捨てたことから、別扱いにしているのかもしれませんが、両者は同族です。13人の中に2名を送り込んでいるのは三浦だけです(と言いつつ、安達盛長と足立遠元も親戚ですが)。

ちなみに、この時北条等で兵三百を集めて山木の館に討ちいれば勝てると義時は言っています。まあ、兵三百は史実の石橋山の頼朝方の兵力ですが、その後、坂東武者を集めて三千、大庭方は二千と言っていますが、実際にはこの時頼朝に付いたのは三浦一族(和田を含む)五百だけで、しかも、三浦は途中の天候不良で合流できないうちに、頼朝方が負けてしまいました。対する大庭方は三千でした。この辺りは来週以降に語られるかと思います。


他の回の補足は以下から辿れます。

2022-01-31趣味三浦一族,大河ドラマ,鎌倉時代,鎌倉殿の13人

Posted by woinary