「鎌倉殿の13人」第19回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第19回。平家を下し、後白河法皇に気に入られて順風満帆に見えた義経ですが、頼朝との間に隙間風が吹きます。
頼朝と義経の決別
結局、よく分からない頼朝と義経の不仲
頼朝と義経の仲違いについては色々と言われてきましたが、結局、本大河では何がどうだったのか。最後に北条父子がいい感じにまとめてましたが、実質、なんだかよく分からないと思ったのは自分だけでしょうか。
まあ、行家の言うことを真に受けてしまったり、「他人を信じすぎる」と言うのも分からなくはないですが、それを義時には言われたくないものです。先日までその役所は義時本人だったのですから。
結局、誰も悪くしないために、なんとなく分かったように「ちょっとした運命の悪戯」で誤魔化したように見えました。行家の頼朝評もどうかと思いますが、その後の人生で、頼朝や北条家は頼朝の兄弟等を次々と殺していくのですから、何を言っているのやら、という感じです。
頼朝の兄弟等のその後について簡単にまとめておきます(男子のみです)。
名前 | 続柄 | 備考 |
---|---|---|
悪源太 義平 | 長男 | 1160年、平治の乱で敗北し処刑 |
松田冠者 朝長 | 次男 | 1160年、平治の乱で敗北し死亡 |
三郎 頼朝 | 本人(三男) | 鎌倉殿、1199年死亡(死の詳細は不明) |
義門 | 四男 | 生没年不詳、早世したとのこと(任官したらしく、平治の乱の後に死亡したのではないか、とも) |
希義 | 五男 | 1180年、頼朝挙兵前後に土佐国で討たれたとも、自害したとも伝わっている。 |
蒲冠者 範頼 | 六男 | 1193年、曽我兄弟が富士の巻き狩りで仇討ち騒ぎを起こした際に、頼朝が討たれたとの誤情報が入り、範頼が政子に「自分がいるから大丈夫」と言ったことから頼朝に謀反の疑いをかけられたとも。その後、伊豆に流され吾妻鏡ではその後の消息は触れられていないが、別の資料では誅殺されたとも(ただし、誅殺されたという根拠は薄い。一族や家人、郎党が処分されたのは確かなようなので、処刑ないし出家といったなんらかの処分は受けたと思われる)。 |
全成 | 七男 | 政子の妹、阿波局(本大河では実衣)の夫。兄弟で一番最後まで生き残る。頼朝死後は北条時政と共に実朝側について二代将軍頼家一派と対立。1203年、頼家によって常陸に流された上で誅殺。 |
乙若丸 義円 | 八男 | 1181年、行家の挙兵に参加し平家と戦い討死。 |
九郎 義経 | 九男 | 1189年、藤原泰衡により討たれる。 |
義経謀反の経緯
義経謀反に対する史料にある経緯は本大河とは異なっています。
- 腰越状の下りの後、鎌倉から今日に戻る際に義経は「鎌倉殿に異があるものは自分についてこい」と宣言
- それを聞いた頼朝は義経の所領を没収
- 平清盛の義弟にあたる平時忠の娘を義経が妻に迎え、時忠とその子時実を庇護(時忠は頼朝により流罪が決定していた)。
- 頼朝の推挙により義経が伊予守に任官(なお、推薦自体は所領没収の後だが、それ以前に内々に根回しが済んでおり、今更取り消せなかったとも←つまり拗れた後では本意ではなかった、とも)
- 義経が検非違使留任のまま伊予守を受官。(本大河では後白河法皇の陰謀、実際にどちらが画策したか不明だが、どちらにしろ法皇が認めたのは確か。頼朝と義経の決裂が頼朝側で確定したのが、この留任という説もある)
- 梶原景時の嫡男、景季により義経に行家追討を命じたが義経は自身の病と血縁を理由に拒否
- 本大河でも描かれた土佐坊による義経襲撃事件発生、土佐坊は処刑される
本大河では梶原景時は出てきても、その子の景季は未登場だったように思います。その役割を、なぜか義時が請け負っている感じです。もっとも、行家討伐については一切触れられませんでしたけど。
日本一の大天狗
今回、頼朝に代わって上洛した北条時政、義時父子から頼朝の言葉として伝えられたのが、後白河法皇が日本一の大天狗だと頼朝が評したという話。本大河では、謁見した北条父子と法皇の間でのやりとりだけで済まされてしまいましたが、実際は手紙でのやり取りでの話になります。
今回、法皇に対して義時が不遜にも頼朝追討の宣旨を出した点について問い、それに対して法皇が「義経に脅されたから」と答えています。
実際には、手紙のやり取りの中で頼朝から「なぜ自分を追討する宣旨を出したのか」と問うたのに対して、義経に責任を押し付け「天魔の所為」と言い訳したわけです。もちろん、法皇自身が魔がさしたなんて言うわけはなく、これは頼朝と法皇の取次をした貴族、高階泰経の言葉、という形になっています。高階泰経は法皇様は義経に院宣を出さないと御所で法皇の目の前で自害すると脅され、「魔がさし」て、本心ではなかった院宣を出してしまったと弁護したわけです。
それに対して頼朝は何言ってんだ、院宣で行家や義経を捕らえるためと称してまたぞろ院宣を出せば、余計な動員をすることで国の疲弊する元になる。本心でもない院宣を乱発するなんてそんなことができるのは大天狗のせいだろう、と揶揄したわけです。天魔より上位の悪の存在が大天狗なのです。もちろん、恐れ多くも治天の君に対して大天狗なんて(表立って)言うわけがありません。
その辺の説明は一切スルーした上で、北条父子は治天の君に対して直接「大天狗」と言ったわけですから、こんなことしたら本来は首が飛ぶでしょう。有名な言葉だけ出してそういうあたりを誤魔化してるように見えました。
なお、件の高階泰経とその子はこの件で結局解官されて伊豆に流されます。もっとも、のちに許されて京に戻りましたけど。まあ、法皇のとばっちりを食らっただけですからね。
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