「鎌倉殿の13人」第1回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がいよいよ始まりました。三浦半島に住む身としては、その三浦半島をその頃治めていた三浦一族が登場する期待の作品です。
「ドボルザーク」、「首ちょんぱ」がTwitterのトレンド入りする等、賛否両論ある今期の大河ですが、三浦一族よりの視点で補足したいと思います。
ほんとは面白い鎌倉時代
先日NHKの大河ドラ特番で、過去の大河ドラマを時代別に分けると、いわゆる戦国時代が最も多く、それに次いで幕末ものが多いということでした。一時期、幕末ものはタブーとされていたのですが、龍馬伝、西郷どん、八重の桜、新撰組!、篤姫等といった作品が次々と放映され、人気が高まったのでしょう。
そんな中であまり脚光を浴びて来なかったのが鎌倉時代と室町時代。どちらもいくつかの作品が放映されていますが、人気が出たとは言えない作品が多いです。個人的には割と好きなのですけど。
鎌倉時代のイメージ
そんな鎌倉時代は一般的にはどう思われているでしょう。自分が鎌倉時代や三浦一族と出会うきっかけとなったのは永井路子氏の本がきっかけです。小説ではなくて三浦一族の歴史を取り上げたものでした。その本にもあった一般的な鎌倉時代や鎌倉武士のイメージは以下だったかと思います。
- 早くから北条一族が実権を握った
- 鎌倉武士は猪突猛進、一騎打ちで物理的にぶつかり合う
この後、「鎌倉殿の13人」を視聴していくと、上記の常識が覆されるかと思います。
自分の世代は「いい国つくろう鎌倉幕府」という語呂合わせで鎌倉幕府の成立は1192年と習いました。これは確か征夷大将軍になり幕府を開いた年だったかと思いますが、今は実質的に実効支配をした1185年と学校では習うそうです。幕府滅亡は1333年。およそ150年が鎌倉幕府の歴史です。
その鎌倉幕府は頼朝が権力者として君臨したというのが、江戸幕府の封建制度に慣れた考え方かと思います。実際には頼朝が独断でできたことは少ないのが実情です。そして、頼朝の死にも頼朝と鎌倉御家人の思惑の違いがあったとも言われています。
今回の大河ドラマのタイトル「鎌倉殿の13人」とは、主人公である北条義時を筆頭として鎌倉幕府を支えた13人を表しています。それは頼朝の死後、二代頼家を支えた13人による合議制を指します。その構成は以下の通りです。
- 北条義時:主人公
- 北条時政:主人公の父、義時・政子によって追放
- 梶原景時:義経との絡みが有名、1200年他の御家人と対立して一族滅亡
- 比企能員:頼朝の乳母の一族という有力者、1203年に時政と対立して一族滅亡
- 安達盛長:頼朝の乳母の親戚という有力者、1247年に北条と結んでライバル三浦氏を滅亡に追い込んだが、1285年に北条氏(得宗家)と対立して一族滅亡
- 和田義盛:三浦一族で幕府軍事部門のトップ、1213年北条氏と対立して一族滅亡
- 大江広元:貴族出身、一族は北条氏と縁を結んで存続
- 三善康信:貴族出身、存続
- 三浦義澄:義村の父、北条氏と対立して1247年一族滅亡
- 中原親能:貴族出身、大江広元の兄弟、存続
- 二階堂行政:貴族出身、存続
- 足立遠元:安達氏の親戚、1285年に北条氏(得宗家)と対立して没落
- 八田知家:有力御家人宇都宮氏の一族、御家人の主流にはなれなかった模様
その多くは坂東武者であり、鎌倉御家人です。そして、幕府内での血で血を洗う権力闘争の末、最終的に北条一族が実権を握ります。
上記の13人から次々と脱落していき、最後に北条・安達勢力と三浦勢力が争ったのが1247年の宝治合戦です。この時の北条の当主が時頼で義時のひ孫です。滅ぼされた三浦一族の当主が泰村で義村の子です。時頼の父である北条時氏は母親が三浦義村の娘で妹は泰村の妻です。この後、北条氏が鎌倉幕府をほぼ掌中に収めますが、なんと幕府成立から60年近く経っています。150年の歴史の60年は内輪の政争に明け暮れていたのです。
さらにその安達氏も1285年の霜月騒動で北条得宗家と対立して一族滅亡し、北条専制が確立します。幕府成立からおよそ100年が経って、ようやく北条氏が実権を全て握ったのです。逆に言えば、そこまで鎌倉御家人たちは武力を使わずに、裏で暗躍して権力闘争を繰り広げていたのです。
決して猪武者ではなくて、武力の激突の前に裏では外交戦や謀略戦があったのです。
納得いかない三浦の扱い
第1回では源頼朝が伊藤祐親の娘、八重と男子を作って京から戻った祐親の怒りを買い、頼朝が北条館に匿われたところから始まります。
これを義時から聞いた義村が父、義澄に知らせ、同時に祐親に知らせるべきだと言っています。その後、義時を問い詰めた祐親は北条館に頼朝が居ることを確信しており、兵を差し向けたところまでが第1回のお話です。明確にされていませんが、話の流れからすると三浦義澄ないし義村が、頼朝が北条館に匿われていることを祐親に密告したと見るのが妥当かと思います。
しかし、三浦一族は源氏との結び付きが深く、源義朝と平清盛が激突した平治の乱には三浦義澄も源氏方で戦っています。義朝の子である義平の母は一説では義澄の父である義明の娘とも言われ、義澄にとっては義理の兄弟になります。
そして、石橋山の合戦には天候の都合で三浦一族は間に合わなかったものの、千葉に逃れた頼朝と合流して鎌倉幕府の有力御家人の一つとなり、最後まで北条と勢力を争ったのが三浦一族です。それが、頼朝を売ったように描かれるのは少々納得がいきません。
頼朝の周辺の描き方に対する一抹の不安
第1話では頼朝に従うのは一人だけで、1話中で工藤祐経が頼朝に従うという淋しい状況です。これでは三浦義村が「平家に勝てるわけがない」と言うのも無理はありません。
が、実際にはこの頃すでに頼朝の乳母である比企尼の関係者が頼朝の周囲に仕えています。1話を見ると誰も支持していない頼朝を北条宗時が勝手に入れ込んだかのように描いていますが、そんなことはありません。むしろ、北条氏の方が後から政子の縁で頼朝支持に回ったのです。
後に13人の一人になる安達盛長をはじめ、同じく武蔵武士の河越重頼、伊東祐親の次男である伊東祐清をはじめとした坂東豪族や平治の乱で源氏方に与して浪人になったものたちが従っており、この時点ですでに三浦一族も頼朝と通じていたとされています。
坂東と源氏の結びつきは古く、伊東祐親や背後の平家を恐れたにしろ、積極的に頼朝を売り渡すようなことを坂東武者がするはずがないのです。そうでなければ、この後石橋山の合戦に敗れた頼朝が千葉に逃れた後に力を盛り返して鎌倉に入り、やがて平家を打倒するなんてことが起きるはずがありません。
そういう意味で、北条ばかりに焦点を当てて鎌倉時代と鎌倉幕府を歪めて伝えようとしているのではないかと言う点を少し危惧しています。杞憂で終われば良いのですが。
伊東祐親と工藤祐経
鎌倉あたりまでの武士たちは同じ一族でも居所の地名をもとにした名を名乗るので、親族関係が分かりにくいです。例えば、「鎌倉殿の13人」の三浦義澄と和田義盛は同じ三浦一族です。義澄の父である義明の長男が和田義盛の父である杉本義宗ですので、義澄から見ると義盛は甥になります。本来、義宗が三浦を継ぐはずでしたが亡くなってしまったため、次男の義澄が三浦を継ぎ、その子の義村に受け継がれていきます。
同様に、じさま伊東祐親と工藤祐経も元は同じ一族です。この二人の確執と、頼朝が我が子千鶴を祐親に殺された恨みが後の曽我兄弟の仇討ちにつながります。
事の発端は伊藤祐親の祖父である工藤祐隆です。この祐隆の子で祐親の父が伊東祐家ですが早世してしまいます。それで祐隆は自分の後添いの娘の子である工藤佑継を長男、孫である祐親を次男としてしまいます。後継になるはずだったのが、分家に押しやられてしまったのです。
その祐継の子が工藤祐経です。祐経の妻は祐親の娘なので、義理の子でもあります。同様に北条時政や三浦義澄とも娘婿同士で義理の兄弟となります。もっとも、第1回の時点で時政の妻は故人です。
そして、祐経が京に出仕している間に祐親はその所領を奪い、妻も離縁してしまいます。これが祐経が時政に訴えていた話です。
ただ、祐経が祐親をじさま呼びするのはちょっとおかしいですね。祐経にとって祐親は義理の父親(ただし、上述の通りすでに離縁されている)であり、自分の父の義理の兄弟なので義理の叔父で、義理の祖父の実の孫という混み入った関係ですが、少なくとも義理でも実でも祖父と孫の関係にはなりません。娘婿同士の時政の子の義時や義澄の子の義村とは立場が違います。
まあ、時政も祐親をじさまと呼んでますが、この時点で時政には子である宗時、義時がいるのでじさま呼びもありですが、工藤祐経の長男の誕生は1話よりも後ですので、祐経が祐親をじさまと呼ぶ理由がやはりありません。
話を因縁に戻すと、1話の終盤で頼朝が工藤祐経に伊東祐親を殺せと命じますが、その結果、祐親ではなくその子の河津祐泰が死んでしまいます。その子供がかの曽我兄弟になります。祐経にとっては祐泰は元義理の兄弟で、その子の曽我兄弟は元義理の甥になります。
結局、工藤祐隆が引き起こした御家騒動が、子や孫、ひ孫にまで引き継がれる御家騒動に発展するのですから、因果応報というか親の因果が子に報いというか。
わかりにくい名乗り
で、同じ一族ですが、名が工藤、伊東、河津、曽我とわかりにくい事この上ないのですが、鎌倉武士はこういうのが多いです。土地との結びつきが深いので、親が治めていた土地を子供達が引き継ぎ、それぞれの治めた土地名を名乗るので、兄弟でも名乗りがバラバラです。例えば、三浦義澄には男の兄弟が何人かいますが、杉本義宗、太田和義久、佐原義連、多々良義春、長井義季、杜重行となっています。杉本(鎌倉の地名)、杜(詳細不明)以外は全て三浦半島の地名です。
一方の北条氏は皆北条を名乗っています。それだけ治めていた地域が小さかったためかと思われます。もっとも、北条時政より上の世代の記録は非常に乏しく、兄弟の存在も不明で、北条氏の系図は時政以降しか残っていない状況です(いくつかあるが内容がバラバラで信憑性が薄い)。
石橋山の戦いでの動員兵力も非常に少なく、そこからも土着の勢力ではなかったのではないかという気がします。後に勢力を広げてから、北条も得宗家以外の分家がいろいろ名乗るようになります。他の坂東武士が関東土着の豪族であることが明確であることに比べると、どうにも謎が深い点でも、他の坂東武士や御家人とは毛色が違うのです。
まとめ
賛否両論で物議を醸しているようですが、個人的には面白いとは思います。ただ、先に書いた通り、主人公である北条一族を持ち上げたいのか、ちょっと坂東武士の扱いがおかしいように感じるところに不安を感じます。
北条を持ち上げるにはそのライバルである源氏由来の坂東武士を貶めないといけないと思ったのでしょうか。
他の回の補足は以下から辿れます。
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