「鎌倉殿の13人」第16回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第16回。今回は義仲追討と一ノ谷の戦いを一度に済ませてしまうという、急激な展開。いや、ここで慌てるくらいなら、今までののんびりペースはなんだったんだろう?という感じです。
クライマックス!と煽る割に盛り上がらない…
最初に書いた通り、義仲追討から一ノ谷の戦いまで、随分と足速に進みました。義経曰く、休んでいる暇はない!とのことですが、イヤイヤ、急に随分と急ぎ出したな、と。
一応、日程感がどんなものだったのかを記しておきます。
- 1184年1月6日 鎌倉軍が墨俣から美濃へ
- 1月20日 瀬田と宇治川で木曽軍と鎌倉軍が開戦
- 1月21日 義仲討死
- 2月4日 鎌倉軍が平家追討のため京を進発
- 2月5日 三草山の平家軍を撃破
- 2月7日 一ノ谷の戦い
まあ、実際に今回の話は3週間足らずのことではあります。ただ、取り上げられたエピソードは色々と史実(というか各種史料)とは食い違いがあるようです。というか、色々都合があるのでしょうが、正直、今回の筋書きは各所で疑問を感じました。
宇治川の戦い
概ね史実に沿った話になっています。ただ、義経の率いる兵が1000人の根拠となる情報として、関東は飢饉であるため、という情報があったようです(それも頼朝が意図的に流したとの説あり)。
なお、義経が敵の目を引くために「宇治川の先陣争い」を故意に起こしたという筋書きになっていましたが、これ自体は頼朝の持っていた名馬が絡んだ事件で、別に義経の策略ではないようです。しかも、そういう話はチラッと出てきたものの、結局、先陣争いが描かれることもなかった上、義仲は宇治川の戦いの前に京に引き上げてしまったかのような不思議な描写で、すごく中途半端です。今回、宇治川の戦いから一ノ谷の戦いというクライマックスを、ろくに合戦を描くこともなく1回にまとめてしまった弊害かとは思いますが、それなら中途半端に先陣争いのエピソードを持ち出す必要性があったのかが疑問に感じます。
予算ありきで合戦を描かないための駆け足なのか、駆け足で合戦を描けなかったのかは分かりませんが、予告で「クライマックス!」と煽った挙句に今回の流れは、肩透かしを食らったように感じたのが正直な感想です。
三草山の戦い
劇中では御家人等が三草山まで2日はかかると言って反対しているのに義経が明日には攻め込む!と超ブラック上司になってます。が、実際には色々と違うようです。
そもそも史実として、2月4日に今日を進発した範頼、義経軍は5日に摂津に入ります。ここで7日に一ノ谷を責めるた東西から挟み撃ちにするために二手に分かれます。これに対して平家軍は三草山に防御の陣を構え、義経軍は反対側に陣を敷きます。
「平家物語」によれば義経は土肥実平を呼び、夜襲をかけるか明日にするかを問います。すると、田代信綱という石橋山の合戦にも参加した坂東武者が明日にすれば平家軍が増えるので夜討ちをかけるべきと進言、義経も受け入れます。この時点で義経軍は範頼軍とは別行動です。
劇中みたいに義経がブラックな命令を出したわけではなく、御家人側からの進言を義経が受け入れたことになっています。また、夜討ちはないと油断していたとは言え、義経軍が陣を置いていることは平家軍も認識しており、別に2日の行程を急進撃して驚かせたわけでもありません。
なお、平氏物語で土肥実平を呼び出しているのは、この時別行動していた義経軍と頼朝軍の侍大将がそれぞれ実平と景時だったためです。つまり、一ノ谷を東西から責める際の三草山の義経軍に景時がいるはずがなかったりします。当初は義経に景時、範頼に実平がついていたのですが、それぞれ性格が合わずに入れ替えたとあります。まあ、後の義経と景時の対立からの景時排斥の流れを作るために、そういう話にされた可能性もあるのかとお思います。
一ノ谷の戦い
ここも色々食い違いがあるようです。
- 鹿の糞の件:劇中では義経が崖で鹿の糞を見つけて、鹿が行けるのだから馬も行けると言い出します。が、実際には弁慶が連れてきた鵯越を知る猟師に「鹿はこの道を越えるのか」と聞いています。なお、この時、道案内を猟師に頼むが高齢のために息子を紹介し、その息子は義経に気に入られて郎党に加わることになります。まあ、「鎌倉殿の13人」では無視していますけど。
- 逆落とし:ここも話に出ただけで一切描かれませんでした。劇中では馬で駆け降りるのではなく、馬を先に行かせて人は別という話になってました。「平家物語」では、義経が馬2頭を崖から落としたところ、1頭は足を挫いたがもう1頭は無事に駆け降りた。それを見て「用心すれば大丈夫」と義経が真っ先に馬に乗って駆け降り、続いて三浦一族の佐原義連が「三浦ではこれくらいは普通だ」と豪語して続き、畠山重忠が馬を怪我させないように背負って駆け降りたとされています。なお、佐原義連は「鎌倉殿の13人」には(現時点では)登場しません。劇中で重忠が背負うと言っていたのは平家物語のエピソード由来かと思います。が、「吾妻鏡」では重忠は範頼軍にいて、義経軍にはいなかったとされています。まあ、これはのちに重忠を時政が騙し討ちするので、重忠が活躍したことにはしたくなかった可能性があります。
なお、逆落とし自体は平家物語の創作という説もあります。吾妻鏡は逆落としらしき話があるものの、これ自体が書かれたのは相当先の話だり、平家物語を元にしたのではないかという説もあります。 - 景時はいなかった:義経に対してはなんか色々複雑な想いを抱えた感じの梶原景時。が、先にも書いたように、一ノ谷攻撃時点で範頼と義経は別々に分かれており、景時は範頼の本軍に属しています。つまり、義経が本軍と別れてからは景時も義経とは別行動であり、漁師の話を聞く時や鵯越の現地で義経のそばにいるのはおかしいです。
畠山重忠の妻
劇中、畠山重忠が嫁が欲しいみたいなことを言い出します。
実際、重忠の正妻は時政の娘ですので、本当に妹をもらったことになります。しかし、劇中では出てきたことのない妹ですが(劇中で出てくる時政の娘は今回までで頼朝の妻、政子、阿野全成の妻、実衣こと後の阿波局のだけです)。実際には政子の同母妹である時子(足利義兼の妻)と、重忠の妻となり、その後足利義純の妻となる女子の他に母親不明の女子が3人、牧の方との間に4人の女子がいました。牧の方との娘や息子の政範は今後出てくるかもしれませんが、母親不明の5人の娘は出てこないのではないかと思います。
なお、1183年に足立遠元の娘との間に最初の男児、重秀が産まれていますので、今回の時点で妻がいないということはありません。後から嫁いだ時政の娘が正妻となり、嫡男はその北条方の重保になります。北条の血を引く重保ですが、重忠が北条に討ち取られた際に時政によって三浦義村に討たれます。つまり、時政は自分の孫を討ち取らせたのです。
今は今は好々爺然としてる時政ですが、史実では色々と暗躍している人物です。今回も亀の前事件で引き篭もった伊豆から戻ってきた理由として「伊豆に籠っていて知らない間にあることないこと言われて謀反を理由に誅殺されては敵わない」ことを挙げてますが、まあ、後の北条を築く土台を作っただけの人物だけはあります。
三浦義村の娘
今回、義村が八重のところにやってきて娘の世話を頼みます。いや、三浦一族で面倒が見られないわけがないので、そんなことを頼みに来るはずがないとは思います。
ただ、今回生まれた金剛こと北条泰時の正妻は三浦義村の娘です。が、この矢部禅尼は1187年の生まれとされているので、まだ今回の時点で生まれていません。なお、矢部禅尼は1212年までには離縁されて、三浦一族の佐原氏に再嫁しています。なお、現在の横須賀市衣笠近辺に小矢部、大矢部という地名が残っており、矢部禅尼は夫である佐原盛連の死後にこの辺りで出家したため矢部禅尼と呼ばれるようになったようです。
と言うわけで、今回のエピソードが後の義時と義村の縁戚関係の伏線になるのかよく分かりませんが、史実を雑に改変している可能性があります。と言うか、なぜ今の時点でこのエピソードをぶっ込んできたのかがよく分かりません。
広常の後継、和田義盛
今回もお茶目に活躍する和田義盛。上総介広常亡き後の「鎌倉殿の13人」では、無骨ながらかわいい癒し枠を引き継ぎそうです。
そんな義盛、今日に入った後に嫁が欲しいという重忠に便乗して俺も欲しいとか言って呆れられます。なお、義盛はこの時点で37歳です。嫡男常盛が1172年生まれで当に成人した22歳ですので、今更嫁が欲しいとか言い出しますかね?
その義盛が巴御前を見て気にいるシーンがあります。が、特にその後の絡みは(少なくとも今回は)ないので、なんか中途半端なシーンです。ただ、これは一応、元になるエピソードがあります。
「源平盛衰記」という物語では巴御前は鎌倉に降り、義盛が自分の子を生ませたいと頼朝に申し出、結果として三男の朝比奈義秀という子が生まれたという記述があるとか。ただ、一般に朝比奈義秀は1176年生まれとされ、今回の話の8年も前になります。ですので、創作とされています。
が、今回あんなシーンがあったので、もしかすると後の話で巴が再登場するのかもしれません。ただ、本作の場合、今回の宇治川の先陣争いといい、鵯越といい、話は出てきても何も描かれないみたいなことがあります。
今回までの話でも有名なエピソードが全く登場しないなんてことは色々ありました。例えば、鵯越でも触れた佐原義連ですが、上総介広常と岡崎義実が揉めた時に納めたりしています。が、今回、予算の都合か何かで義連を出さないと決まったためか、このエピソードは広常と頼朝の不仲説の根拠となるくらいに有名なのに、一切、触れませんでした。例によって義時にでも「まあまあ」とおさめさせればよかったようにも思いますが。
もっとも、先陣争いの件と同様、しれっと話が出てくるだけで終わりという可能性もあります。
この朝比奈義秀という人物は父親譲りの豪のものとされ、後の和田合戦でも父義盛や兄常盛が討死する中、包囲を突破して安房に逃れ、その後の消息は不明とも、高麗に逃れたともされている程の人物です。そんなところから、巴との間にできた子供、という伝説が生まれたのかもしれません。
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