「鎌倉殿の13人」第40回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第40回。いよいよ和田合戦!と思いきや、その直前までで終わりました。一旦は手打ちの状況になったものの、勘違いした一族が暴走する流れとなる模様。それはさておき、例によってツッコミを入れておきます。
実朝と義盛の君臣の伏線が見事だった
ここまで度々描かれてきた実朝と義盛の交流。ここにきてその伏線を見事に回収してきたのは見事です。頼朝と上総介広常を想起させます。ただ、そのほかの部分では色々とアラも見え隠れしてますが。
泉親衡の乱
1213年に起きた内乱事件です。信濃源氏の泉親衡が頼家の遺児を担いで北条義時打倒を狙ったと言われています。が、なぜか劇中では「飛騨の小県」の泉親衡との発言がありました。小県は同じ三谷脚本の「真田丸」でも登場したように信濃(現在の長野県上田市)の地名なのに、なぜか飛騨との発言になっています。真田丸をやったのだからそんな勘違いが起きるはずもないのですが、一体…。同じ信濃でも松本とかの方であればまだ飛騨寄りなのですが、上田ですから真反対の現在の群馬県側になります。
信濃源氏といえば「鎌倉殿の13人」では木曾義仲が登場しています。彼は信濃源氏と言っても河内源氏の一族。一方、泉親衡は清和源氏の流れ。祖は源満仲であり、多田姓を名乗ったため多田源氏とも。信濃源氏は色々な流れがあるためすごく複雑だったりします。
この乱では劇中の通り、和田の一族の多くが関与していましたが、それだけではありません。上総の一族や八田の一族も関わってます。泉親衡の消息は不明と言うのは「鎌倉殿の13人」の通りですが、川越の寺に義家の遺児、千寿丸と共に逃れてきて出家したとの伝承があるそうです。
「鎌倉殿の13人」では大江広元の台詞で後鳥羽上皇の関与を匂わせています。が、一般的には北条義時が和田を挑発するために仕掛けたとも、逆に和田が黒幕だったとも言われています。
実は三浦の後継だった?和田義盛
実朝との君臣の契りで泣かせた和田義盛。彼は頼朝挙兵時の三浦一族総帥である三浦大介義明の孫になります。本来、義明の後継は義盛の父、杉本義宗でした。義宗は義昭の長男であり、一時は三浦の家督を継いだのですが、安房との所領争いで討死してしまいます。その結果、次男の義澄が三浦を継ぎます。その後、三浦氏の本家は義澄、義村と受け継がれた、と言われています。
しかし、今回も上皇のそばに近侍していた慈円による日記、愚管抄では和田義盛を指して「三浦の長者」と記しています。この長者が単に長老格を指しているだけなのか、頭領的立場を意味しているのかは不明なところもあります。が、可能性の話としては侍所別当という幕府の重役を担っていた義盛こそが三浦一族のトップとみなされていた、という可能性も。
そうすると、三浦義村の動きもまた違ったものに見えてきます。義村にとっても実は義盛は目の上のタンコブだったという可能性もあります。そこまでは言わなくても、これからは武ではなくて智の時代に切り替わるとなれば、猪突猛進で感情的に動く義盛は一族全体を危険に晒すという危機感があったのかもしれません。そういうあたりは「鎌倉殿の13人」では表立って描きませんけど。
可能性の話だけすれば、反北条の筆頭として担ぎ上げられた義盛が泉親衡の乱を裏で引き起こしたものの、それで危機感を覚えた三浦義村が一族を守るために義時と組んで和田を滅ぼした、という流れもありかと。義時、義村的には北条対反北条という狭い争いをしている状況ではないと見越していたのかもしれません。というくらいの筋書きにして欲しかった気はします。
いよいよ和田合戦
今回で一気に和田合戦に流れ込むかと思いきや、本番は次週へ。和田義盛は一族だけでなく、縁戚関係があり武蔵野強力な武士団である武蔵七党の一つ、横山党も味方につけました。武蔵の武士団ですから、当然、畠山重忠を討った北条氏とは因縁があります。和田合戦は当初和田側優勢で進むも、北条方に援軍が来て盛り返し、さらにこの横山党が和田方の援軍に駆けつけて再度盛り返します。そのため、北条義時と大江広元は実朝名義の御教書を発して御家人を味方につけてようやく和田を退けることに成功します。
武蔵七党と言えば、三浦大介義昭が討たれた衣笠合戦で畠山重忠の下で活躍したのが金子十郎家忠。彼は一歩も退かずに戦い三浦義明も感嘆したと言われています。そのため、衣笠城に近い場所に金子という地名が残っています。金子家忠が陣を敷いた場所と言われています。その金子十郎の顎の下を弓で射て退けたのが他ならぬ和田義盛と言われています。
そんな鎌倉初期の最大の戦いをどう描くのかが楽しみです。
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