「鎌倉殿の13人」第27回・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第27回。新章ということでいよいよ13人の登場ですが、最後を見るとなかなか波乱の幕開けです。まあ、本大河でどこまでやるのかわかりませんが、承久の乱か義時の死辺りでしょうから、事件には事欠かない後半戦になりそうです。

増える宿老

今回はタイトルの「13人」が揃う話。というわけで、最初に5人という話から始まって、どんどん増えていく様を面白おかしく進めましたが、最後は頼家と宿老たちの対立、と言うか頼家の一方的な反抗期という形で落着することになってしましました。

お前がそれをいうか、義時

まあ、今回の1番のツッコミどころは終盤の義時と頼家の対話でしょうか。後の歴史を知っている身からすれば、いや、お前がそれを言うか?と。そう言う意味では、最後の宿老お披露目の場で頼家が義時に「お前(ら)」を信じないと宣言したのは、ちょっと胸がすきました。まあ、北条得宗を持ち上げる吾妻鏡も真っ青の本大河脚本ですから、これから頼家は希代の暗君とされてしまうのでしょうね。最近の研究では頼家は実は暗君ではないのでは?と言う意見も多いのですが。

特に虚しいのが「御家人を信じてください」でしょう。この後、御家人、特に北条家は御家人を粛清しまくるし、その片棒を担いだのは間違いなく義時なのですから。北条の暗黒面は全て時政にひっ被せてしまいますが。もちろん、得宗贔屓の吾妻鏡は梶原や比企、和田などが悪として描きますが。

正直、今回までは頼家も結構義時を頼りにしていた部分があったように思ったのですが、何がこう亀裂を招いたのか。義時自体も自分が13人目になることに対して、頼家がよく思わないだろうと言っていたので自覚はあった様ですが、その根拠が今ひとつよく分かりません。

今回の冒頭では政子、義時と頼家は良好な関係に見えたのですが。まあ、自由にやれ、支えると言っていたのがこの体たらくなのだから、そりゃ信用できないとは思います。頼家のやる気を削ぎたくないと言っていたのは本心なのでしょうから、まあ13人も宿老がつくといえばよく思われないのは容易に想像がつくと言うものか。そもそも、義時が他人の言いなりになりすぎるのは今回に限った話ではなく、その反省が後の得宗独裁に至るのでしょうか。これも義時正当化の一環なのでしょうか?

時連→時房の改名イベントは?

今回、平知康と蹴鞠上手で知られた北条時房(現状では時連)が出てきたので、てっきり改名イベントがあるかと思ったら、まだだった様です。本大河は人物の名称に無頓着なのは、まだ大江姓になっていない中原広元が大江広元になっていたり、今回ちょろっと出てきた源通親が土御門通親扱いだったり、そもそも「ほうじょうのときまさ」とか御家人まで名字と名の間に「の」を入れたりと、独特の解釈を示し続ける本大河。なのに、時房だけ「時連」で登場していると言うことは、改名イベントをやる気満々だと思うのですが。確かに、彼の改名は景時の失脚から2年後ですので、まだ早いのは確かですが、大江広元なんて20年以上フライングしているので。

牧の方にターゲッティングされる重忠

以前に稲毛重成と畠山重忠が揃った時にも牧の方(りく)にダメ出しされていた畠山重忠。今回も比企贔屓という疑いをかけられて、完全に牧の方には目の敵にされてしまいます。時政も言っている(ちょっと皮肉か当てつけの様でしたが)ように、武蔵の御家人である畠山氏は元々比企氏に近く、北条と縁戚とは言っても外様扱い。畠山も稲毛もあっさりと切り捨てられるあたり、北条がそもそも彼らを身内とは考えていなかったことがわかります。

それが故に、後の悲劇につながるのですから…。日本三代悪女といえば、北条政子、日野富子、淀の方ですが、政子の功績を考えれば実は牧の方こそが政子と入れ替わりで三代悪女に入るべきという気もしてきます。本大河では亀の前事件の件で政子を焚き付けたのも牧の方でしたし。そこになぜか義経の悪ノリが加わって酷いことになってましたけど。打ち壊された屋敷は亀の前の家ではなく、頼朝に言われて亀の前を預かっただけの御家人の家なのですから、頼朝じゃなくても「ここまでやるか?!」と言いたくなります。

もっとも、これも政子、義時姉弟をいいものに見せるための工作に見えてくるのが本大河脚本の特徴。吾妻鏡自体が時政と牧の方に全てを押し付けて政子、義時を持ち上げようとしている意図が見え隠れするので、それも当然かもしれません。

そもそも13人の合議制は存在したのか?

これ自体、吾妻鏡にそういう記述があるだけで、歴史的な事実は確認されていません。例えば、当時の文書などの署名は文官である中原広元などの署名が当然多いわけですが、いわゆる13人の連名の文書はありません。まあ、梶原景時の失脚や、宿老の中でも年嵩な安達盛長や三浦義澄の死ですぐに瓦解したので本当にそんな制度があったのか自体が疑わしいものです。制度があったなら、失脚や死亡で欠員ができたとしてもすぐに埋められるはずなので。もっとも、この瓦解をきっかけに血で血を洗う抗争が始まってしまって、欠員を産めるどころではなくなった、という事情もあったのかもしれません。

13人の合議制自体は、のちに北条泰時(今は太郎)が作る評定衆の原型とされています。逆にいえば、北条得宗が評定衆の正当性を作るために吾妻鏡で「暗君、頼家」の失政を正すために13人の合議制を作った、ということにしたかったのかと思われます。つまり、源氏による独裁を防ぎ、関東御家人主導の政治、という形式をとっての北条得宗独裁の正当化が目的かと。