「鎌倉殿の13人」第20回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第20回。都から落ち伸びた義経はあっという間に平泉に入ったと思ったら、あっという間に泰衡に討ち取られてしまいました。
さらば義経
というわけで、義経の最期です。弁慶の名シーンもなければ、その最期の場面もない、あっさりとした幕引きでした。頼朝の涙が唯一の救いだったでしょうか。この大河全体を体現するかのような見事に表面的な最期でした。
義時を使いに出せば良いと思ってない?
どうも本大河では困った時は義時を使いに出せば良い、と思ってませんかね。
そんなわけで、例によって北条義時が共に梶原景時配下に収まっていた善児一人を連れて奥州へ使いに出るというとんでも展開。いや、頼朝の家子筆頭の義時が共一人だけ連れて奥州に使い、ってそんな訳ないでしょ。
後に歴史的経緯はまとめますが、今回の話は1187年から1189年頃の話です。義時は20代後半くらいです。そんなレベルの人間が奥州に使いに行きますか?
ちなみに藤原秀衡の死が1187年10月末。まるでその直後に急に一連の事態が起きたかのように受け取れる今回の展開ですが、実はそんなこともありません。
- 1187年10月29日 藤原秀衡没
- 1188年2月 義経が平泉に隠れていることが発覚、義経が出羽国で鎌倉方の軍勢と合戦
- 1188年2月と10月、義経追討の宣旨が藤原氏に下るが、泰衡は拒否
- 1189年1月 義経が京に戻る意思を持った比叡山の僧が捕らえられる
- 1189年2月15日 藤原頼衡(秀衡の末男)が泰衡に討たれる(理由は不明、吾妻鏡には登場しない人物)
- 1189年閏4月 泰衡が500の手勢で義経の居館を襲撃、義経没
- 1189年6月13日 義経の首が鎌倉へ届く
というわけで、1年半くらいのタイムスパンを持った話なのですが…。頼衡が斬られるシーンは(相手が善児でしたが)あったので、義時が奥州に行ったのは2月頃で、閏4月まで随分長く滞在した…訳はありませんね。本大河では時空の歪みはいつものことなので、あまり真面目に考察しても意味がないかと思われます。
なお、おそらく回想だったのでしょうが、静御前が鎌倉の鶴岡八幡宮で舞ったのは1186年4月8日と、今回の冒頭の秀衡の死から1年半前になります。
義経と郷御前
本大河ではなぜか「里」となっている郷御前。比企一族の有力者、河越重頼(おそらく出番なし)の娘で、奥州で義経とその子と共に亡くなったことになっています。子供は4歳の女子だったそうです。
前回土佐坊をけしかけたのが郷御前でしたが、当然そんな訳はなく、土佐坊は頼朝の御家人であり、頼朝の命であの襲撃事件を起こしています。それを兄、頼朝の仕業と思っていた義経は衝動的に郷御前(里)を刺し殺してしまう、という今回の筋書き。どっからそんな発想が出てくるのか…。
なお、河越重頼は義経の失脚と共に領地を奪われた上で、頼朝に誅殺されます。
静御前
女の意地?を見せて、北条義時に身勝手だと批判されてしまう静御前。ただ、彼女の存在を示す当時の史料は吾妻鏡だけだとか。
何度も書いているように、吾妻鏡はだいぶ後に北条得宗家の正当性を示す目的で作られた史料であり、意図的に改竄、捏造されたと思われる部分もあります。
義経の正妻は比企一族の河越重頼の娘であり、その比企氏は北条を打倒しようとしてものの逆襲を喰らって「比企の乱」で北条に敗れてしまいます。そのため、比企の血を引く郷御前の印象を薄めるために静御前という存在を捏造したのではないか、という説もあるとか。
そんなわけで、その吾妻鏡より露骨に北条得宗贔屓の本大河、「鎌倉殿の13人」では、随分とひどい役どころを押し付けられた上に、名前まで改竄された郷御前。心よりお悔やみ申し上げます。
義経、幻の鎌倉侵攻作戦
えーと、穴だらけに感じたのですが…義時は褒め称え、梶原景時も「これをやられたら鎌倉が滅亡していた」とか感心していましたが…机上の空論かと。
ご存知の通り、鎌倉は三方を山に囲まれ、南には海となっています。その山にはいくつかの切り通しがありますが、寡兵で敵兵を防げる天然の要害になっています。そして、南に海があることはわかっているので、当然、北側に全部兵を回して中心部がガラ空き、なんて間抜けなことをするわけもありません。
実際、鎌倉幕府の終焉である新田義貞の鎌倉攻めでも切り通しからの攻略はできませんでした。結局、義経因縁の腰越から海沿いに侵入して鎌倉に攻め入り、北条得宗家は全滅します。
その海です。義時もそこはわかっているので、三浦に見つかったらどうする?と義経に問います。すると義経は「三浦を味方につける。父(義澄)ではなく子(義村)の方だ。あれは利に聡い」と尤もらしいことを告げます。えーと、義経というか奥州藤原氏が三浦にどんな利を示すのでしょう?
三浦義村は後の義時との確執とか、一族の和田氏を裏切ったことなどから謀略の人と見られているのは確かです。ただ、後白河法皇が北条討伐を掲げた承久の乱では、三浦義村にも密使を送ってますが、それを義村は義時に渡しています。その前後、和田合戦も含めて、何度か北条を討てそうなタイミングはありましたが、結局は北条側に寄っています。頼家追放も実朝暗殺も、頼朝存命中の畠山重忠誅殺も、比企の乱も、全て勝者に与して生き残ってきたのが三浦義村です。
三浦の領地安堵とか、あるいは奥州藤原氏体制下での要職を提示したとして、三浦はすでにそれを鎌倉政権下で得ているのですから、義経や奥州藤原氏に与する必然性がありません。
そして、仮に三浦を味方につけたにしても、三浦だけが守りの海上戦力ではありません。北上川から下った奥州軍が外洋である太平洋を南下して、常磐、上総、下総、安房の地元水軍を手懐けるか破るかして鎌倉の相模湾に迫る、なんてことが実現可能でしょうか。海をなめすぎと感じます。そんなことができるなら、新田義貞も海上から攻めたでしょう。実際、義貞が鎌倉を攻めた際には水軍が鎌倉の海岸を防衛しています。
そして、1番の問題です。新田義貞はもともと坂東の実力者であり、同じく実力者の坂東足利氏を引き入れて鎌倉に攻め込んでいます。しかし、奥州藤原氏と義経は、下野、武蔵、相模の地元勢力を連戦で撃破するか手懐けるかして、初めて鎌倉に辿り着けます。正直、鎌倉を攻めるなら電撃的に攻めるしかないと思いますが、そんなことをすれば上野、上総、下総から背後をつかれる恐れもあり、義経作戦がそんなにうまく運ぶかといえばかなり疑問に感じます。
表面的にはそれらしいが、屋台骨が骨粗鬆症な「鎌倉殿の13人」
まあ、歴史的経緯とか鎌倉時代の時代背景とか無視すれば、フィクションとしてはそれなりに面白いのは確かです。そこはさすがですが、これはもう異世界ファンタジーものと思えてきました。転生したら義時だった件、ってタイトルで良いんじゃないですかね。
実際、時政存命時の義時については知られていないことが多く、それを逆手にとってのやりたい放題ですが、時代考証の人はよくこれにOK出してるな、と感嘆します。まあ、時政もわかってないことが多いですけど。
三浦とか千葉とか比企とかとは明らかに史料も少なく、所詮はその程度の勢力だった北条氏がいかにしてのしあがったか?という面では面白いのですが、セリフが現代っぽいとかいうのが些細なことに思えるくらいのこれじゃない感の鎌倉史観に、毎度毎度驚くばかりです。
そもそも「鎌倉殿の13人」というのも看板に偽りありですよね。
まだ十三人体制になっていないせいもあるかもしれませんが、13人のほとんどに存在感が薄く、結局は時政、義時、比企能員、梶原景時、大江にまだなってないはずの中原広元、三浦義村くらいです。
次点で和田義盛と本来は十三人ではない畠山重忠でしょう。頼朝に最も近い安達盛長も存在感は薄く、足立遠元、中原親能、三好康信なんてかなり影が薄いです。義村は本来十三人じゃないですが、「鎌倉殿の13人」は合議制の十三人のことではないらしいし、キャスティングや今までの描かれ方からしても義村が「13人」でしょう。群像劇かといえばそんなこともなく、ただただ北条家ホームドラマ。
「麒麟が来る」、「青天を衝け」は面白かったのになぁ…。
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