「鎌倉殿の13人」第34回・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第34回。北条時政の三日天下。よく言えば義理人情に篤いとも言えますが、悪く言えば賄賂で動く悪徳政治家。今回も変なところがいくつかあったので、ツッコミをいつもの様に入れていきます。

伊賀の方の正体見たり…

しかし、義時はなんで毎回女性にきのこを送るのでしょう。そして、なぜ毎回、当の女性たちはきのこを嫌うのでしょう。いい加減、きのこ業界からクレームが来そうです(笑)

北条政範の死

北条時政と牧の方(りく)の間に生まれた政範。存在感をろくに示さないまま退場することに。しかも、彼の死は不明なところも多いのですが、後鳥羽上皇に唆されて義理の兄弟にあたる平賀朝雅が一服もった(という確定的なシーンはないですが)ことにされるとは。

その政範は劇中での活躍はほとんどなく、出番もあまりありませんでしたがどんな人物だったのか。生まれたのは1189年だから頼朝の奥州出兵の年です。義時とは25歳差なのでほぼ親子。時房とも14歳差です。そういう意味では時政はすごいですね。北条時政は1138年生まれとされているので、政範は51歳での息子となります。時政と牧の方(りく)との間の唯一の男子でした。16歳で従五位下なので坂東の地方豪族の子としては破格の出世です。時政も従五位下でしたので北条家の後継は政範であることを示す任官だったのでしょう。

源仲章らが平賀朝雅をそそのかす際に、時政の後を継ぐのは政範か義時と言ってましたが、政範に何かあった際に継ぐのは時房でしょう。義時はこの頃は北条の分家の江間義時という扱いですので。

相変わらず使われる「執権別当」

まあ、先週の今週なので当たり前かもしれませんがまた「執権別当」とか言ってましたね。執権は組織ではないので、組織の長を表す別当がつくのはおかしいのですが。

おかしいと言えば、相変わらず「ほうじょうのときまさ」みたいな不思議な名前の呼び方を続けてますね。藤原道長(ふじわらのみちなが)や菅原道真(すがわらのみちざね)、そしてもちろん平清盛(たいらのきよもり)や源頼朝(みなもとのよりとも)の姓(本姓)と名の間に「の」が入るのは当然です。でも、名字に普通は「の」はつけないはずなので、「ほうじょうのときまさ」はおかしい訳です。北条時政の本姓は当然平氏ですので、正しくは「北条四郎平時政(ほうじょうしろうたいらのときまさ)」とかでしょうか。「鎌倉殿の13人」では頑なに坂東武者まで「の」付きで呼んでますけど、歴史考証はなぜこれを許したのか?鎌倉初期の武将で「の」が付くのは那須与一(なすのよいち)くらいしか思いつきませんが。

確執が深まる時政と重忠

時政は畠山重忠に対して「武蔵守」になれとか言ってました。重忠がその後で義時に「そんなことが可能なのか」と言っていたのが何を指すのかわかりませんが、武蔵守就任の件かと思われます。

武蔵守になるには官位として従五位下が必要で、畠山重忠は当然源氏の家臣である御家人に過ぎないので官位なんてありません。すなわち、武蔵守になんかなれるわけもありません。まあ、それをいうと同じく御家人に過ぎない北条時政が官位を得ている訳ですけど。

頼朝時代に坂東武者が頼朝に無断で任官できなかったことは有名で、今回義時に頼まれて「検分」していた八田知家も義経と同時に任官を受けて頼朝に罵倒されたと言われています。ではなぜ、罵倒されたのか。その辺を「鎌倉殿の13人」では背景説明をちゃんとしていませんね。
もちろん、理由まで記録に残っているわけではないので多分に推測にはなります。ただ、彼らが任官した役職は京での役職であり、それを受けたということは鎌倉に戻らず京で後白河法皇のために働くと宣言したも同然でした。つまり、引き抜きを受けたも同然なので、そりゃ罵倒もします。頼朝自身も在京の役所を受けたこともありましたが、鎌倉に戻る際にはちゃんと退任して戻りました。頼朝ってそういうとこ細かいのですよね。

話を戻して、武蔵守になれるわけがない重忠に対して、武蔵守就任を口実に彼の武蔵での地位を保障する役職から解任しようとしたのですから、そりゃ重忠も怒ります。その辺の説明も一切ないので、重忠が何に怒って問題視しているのかが今一つ伝わってこない気がするのですが、その辺の事情を知らないみなさんはどう感じたのでしょう?まあ、なんとなく時政が武蔵に手を伸ばし、それに対して重忠が反発した…くらいは伝わるのでしょうけど。

惣検校職とは

時政が説明台詞で言ってたように、武蔵の国司を支える役割です。「鎌倉殿の13人」公式ページでは畠山重忠が代々受け継いできたと説明していますが、ちょっと微妙な説明。

国司は必ずしも任地に赴くわけではなく、その代理として現地でその国をまとめたのが惣検校。元々は秩父氏が惣検校でしたが、勢力争いに敗れて川越に移り、川越氏を名乗ります。その娘婿が源義経です。義経の失脚とともに川越氏の当主であった河越重頼も処分されたため、その地位を畠山重忠が継ぎました。ただし、畠山氏は秩父氏の一族ではありますが、その地位を巡って争った仲です。河越重頼の一件がなければ畠山重忠が惣検校になることはなかったかと思うので、重忠が「代々受け継いだ」は少々違うのではないかと思います。なお、畠山重忠の死後、川越氏は北条家の元で惣検校に復権します。

北条義時の継室、伊賀の方(のえ)

そして今回登場したのが「のえ」こと伊賀の方。二階堂行政の孫です。とは言っても「伊賀の方」の名前の通り、父親である伊賀朝光(いがともみつ)の娘として扱われることが多く、だからこそ「伊賀の方」なのですが。

その伊賀の方(のえ)ですが、登場当初は気立も良く性格もよいと八田知家も太鼓判を押すわけですが、ラストで泰時が垣間見た本性はなかなかの「よい性格」でした。まあ、のちの事件のことを知っていれば伊賀の方はさもあろうというものですが、彼女が悪く言われるのは政子との関係性もあってのことなので、どこまで信じてよいものやら。

なにしろ吾妻鏡ですら彼女や実家の伊賀氏が謀反を企てたとは記していないわけで、政敵として排除されただけとも受け取れます。なぜかと言えば、政子が頼朝の死後に源家の相続人として力を奮ったように、義時の死後に北条家を仕切るのは、相続した伊賀の方(のえ)になるからです。政子としては泰時を支持して伊賀の方を排した方が都合がよかったわけです。そういう意味では、伊賀の方(のえ)も吾妻鏡によって割りを食っている被害者の1人かもしれません。政子の悪女イメージは最近ではだいぶ和らぎ、知らない人も多いかもしれませんが、北条得宗によって割を食わされた人々はいまだにその汚名を返上できないでいるわけで、なんか哀れです。

なお、藤原定家の日記では義時の妻が義時に毒を盛ったと受け取れる話が伝わっています。そんな話が直接的に伝わってるわけではなく、あくまで風聞として載っているのですが。

畠山重忠の変、そして、牧氏事件へ

来週はいよいよ北条と畠山の抗争が本格化。ただ、予告の感じでは来週はあくまで前哨戦で、畠山の乱自体はさらに翌週でしょうか。義時はまだまだ泰時に「人の心がない」と責められそうです。

2022-09-11趣味三浦一族,大河ドラマ,鎌倉時代,鎌倉殿の13人

Posted by woinary