「鎌倉殿の13人」第18回・補足

趣味,大河ドラマ,鎌倉時代,鎌倉殿の13人

源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第18回。ついに壇ノ浦の戦い、そして平家滅亡。合戦はやらないのかと思ったのですが、流石に壇ノ浦はやったようです。

人情があるのかないのかよくわからない義経

合戦が終わるまでの非情さとは裏腹に、今回の最後の方では情けを見せる義経。兄、頼朝に拒絶されたことが効いたのでしょうか。

頼朝と義経の対立。でもなんで?

頼朝の義経に対する想いもよくわからなくなりました。御家人たちの前では幼少の天皇と草薙剣を失ったことで義経を叱らなければならぬと言い、その後の政子には義経がやってくれたと涙する。まあ表の鎌倉殿としての顔と、裏の個人、頼朝の顔なのかとは思います。思いますが、その辺りを吐露するシーンとかもないので、今ひとつ何を考えているのか分かりにくく感じます。結局、会わずに追い返してしまいました。

史実では検非違使への無断任官が兄弟不和の一因という見方もあるのですが、今回頼朝は特にその辺は気にしていないようです。唯一、中原広元(のちの大江広元、本大河ではもう大江姓を名乗っていますが、史実では彼が大江姓に改めたのは晩年の話です)は検非違使は在京官職なのでそのままでは戻れないということを頼朝に告げていますが、その辺り、視聴者にも「だから何?」という感じがしているかと思います。そもそも、在京官職は京に留まって職務を果たすことを求めたのは頼朝のはずですが、その辺の説明もありません。なんとなく歴史をなぞっているだけで、その意味をあまり真面目に捉えていないのかな?と感じました。

無断任官にはそれほど怒っていない?

そもそも、源氏の頭領を自負する頼朝が、自分の麾下にある兄弟や御家人たちに法皇が自分の頭越しに官職を直接与えることは、頼朝の統治権を認めないと言っているようなもので、そこにこそ怒るはずと思うのですが、割とその辺スルーなのですよね。

検非違使に任官したこと自体も特に触れてはいませんでしたし。もっとも、劇中では無断任官禁止の話は出ていないので、それなしでそこに怒ってたらますます視聴者には訳がわからないことになりましたけど。地頭等の任免権を得た時も軽く触れただけでスルーしていたので、あまり歴史的な背景とかは触れるつもりはなく、もっぱら源家同士、源家と御家人、御家人同士の人間関係だけを描くつもりなのかもしれません。

山木を討った直後の伊豆豪族の差配はちゃんと説明したのに、その辺はもうスルーの様で、今ひとつ鎌倉殿、頼朝の思惑が見えてこない様な気がします。

あの時に説明がありましたが、頼朝が伊豆豪族の差配をしたことは、それを持って朝廷に代わって伊豆や関東を仕切るという意思表示であり、その根拠が以仁王の令旨になります。その後、頼朝は地頭職の任免権を法皇から認められます。これも、朝廷に代わって権限を得たということになります。

従来、義経の無断任官が問題の一端とされてきたのは、鎌倉殿の麾下の兄弟や御家人が頼朝からの要請もなく直接任官するということは、頼朝の支配権を認めていないということを意味したからです。そういう意味合いがあるので、頼朝は事前に無断任官を禁止し、御家人たちもそれを守りました。そして、それを守らなかった義経は御家人たちからも異端視された訳です。

今後、義経は頼朝と対立しますが、京周辺の武士団も含めて、ほとんど義経には従っていません。義経の戦に対するセンスと、法皇の威光を理解していても、それよりも鎌倉殿と彼が裏付けしてくれる権利の方が勝った訳です。

念の為補足すると、検非違使任官の背後には頼朝からの京の治安維持の命を法皇が追認しただけという見解もあり、無断任官には当たらないという意見もあります。なので、頼朝は検非違使任官自体はそんなに怒っていないという意見もあります。本大河は全体に歴史的な部分の説明を省きがちなので詳細不明ですが、この見解を採用しているのかもしれません。

中途半端な腰越状

その辺を有耶無耶にした上で、さらに頼朝から見た義経への想いがよくわからない状況なので、義経ならず視聴者までも「頼朝はなぜ急に義経に冷たくなったの?」と疑問に思う様な感じですが、自分だけの感想でしょうか?

分からないのは腰越状の一件。義経に代わって平宗盛が代筆したものを見た頼朝が、彼の官位のこともよく知らないものが書いた=義経が書いたものではないと断じている理由がよく分からないし、平宗盛が頼朝の官位を知らないわけもありません。また、別に宗盛がなんらかの悪意でわざとそのような書状にしたという感じでもなさそうです。

そもそも、腰越状そのものは頼朝宛ではなくて、中原広元宛です。もちろん、頼朝に伝えたいのは当然ですが、直接申し開くのは差し控えたのでしょう。ただ、それを(本大河では書いた本人である)平宗盛が北条時政に渡すというあたりがおかしい話です。

頼朝も疑っていた「義経が五位の尉に任ぜられたのは当家の名誉であり」のくだりは、それくらいは名誉と言うほど高位の官位ではないことから、現在は腰越状自体の信憑性が疑われていたりします。腰越状の文面は「吾妻鏡」に載っていますが、吾妻鏡自体が鎌倉中〜後期に編纂されたものであり、北条得宗家による支配を正当化するためのものなので、全体としては一級の史料と扱われつつも、部分的には信憑性が疑われる史料でもあります。

どちらにしろ、問題の部分以外にも色々と指摘がされており、義経が書いたものではないのではないかという意見も多いです。そもそも腰越状はなかったという説もあり、そこまでは行かないにしてもだいぶ書き直されているという意見もあるあたり、八重問題に通じる部分もあります。

どうせ頼朝が義経のものではないと断じるのであれば、官位云々の下りではなく、感情に訴えかけるような長文を書くはずがない、という巷の根拠の方がまだもっともらしかった気がします。なお、腰越状を書いた人物の一人として、義経の右筆である中原信康(信泰)という人物がいます。彼は平家との戦いをまとめて鎌倉に報告した人物であり、彼の合戦記をベースにしたとされる当時の史料がいくつかあるくらいです。頼朝も彼の書いた報告を読んでいるわけで、文体が多少義経らしくなくても、それを以て怒り出すほどのことなのかというのも疑問に感じる部分です。

忖度する男、梶原景時

一般的な義経と景時の関係性とは異なり、義経と計って「勝てば問題ない」と言っていた梶原景時。鎌倉に戻るや否や、手のひらを返しました。と言うか、頼朝のためにわざとやっていたのでしょう。先の先まで見通しているのですからすごいですが、自分の命は見通せなかったようで。

日本では昔から「判官贔屓」で悪役扱いだった梶原景時。義経に嫉妬して讒言したとも言われていましたが、実際には職務を忠実に果たした忠臣という評価を最近は得つつあります。本大河ではさらに進めて先々のために頼朝の障害を排除するべく画策したようです。それも、頼朝に匹敵するだけのカリスマを見出したための様なので、義経を評価しつつもそれだからこそ排除すべきとの考えなのでしょう。