NHK「鎌倉殿サミット」が面白かった

趣味

NHKの「鎌倉殿サミット2022」をようやく見ました。放送は2/27でしたので1ヶ月遅れの視聴です。2時間番組なのでやはり気合を入れないとなかなか見るタイミングがなかったのですが、正直、もっと色々やって欲しいくらい面白い番組でした。

源頼朝 死をめぐるミステリー

番組サブタイトルとして「源頼朝 死をめぐるミステリー」とありますが、話題はそれだけではなくて、それをきっかけとして様々な話題が議論されます。番組の時間が限られているので、登場した専門家に見解をフリップで出してもらいつつ、何人かで議論して番組としての結論を出す、という流れです。

頼朝の死因について

これについては前提として幕府の公式記録である「吾妻鏡」が頼朝の死の3年前から2代将軍頼家が継ぐまでが見つかっていない、というのがあります。ですので、頼朝の死の詳細については記されておらず、後の方の話題でしれっと落馬が原因で死んだ、とあるだけです。

落馬説

上記のように落馬で死んだとは書いてありますが、まあ、当時でも落馬して打ちどころが悪くて死んだという事例は少ないらしいです。現代では転倒して寝たきりになっ他のがきっかけで衰弱して亡くなるケースが多いようですが、落馬が直接の原因で亡くなったのではなかろうという点では専門家の意見が一致しました。

実際、吾妻鏡以外の史料では病気で死んだという記述が複数あり、きっかけは落馬だったとしてもそれが直接の死因ではないというのは間違いなさそうです。吾妻鏡は初代鎌倉殿である頼朝の末期については、結構先を暗示させるような不吉なことを書いたりしているそうなので、そのために武家の頭領としては不名誉な落馬を殊更に(かつしれっと)入れているのではないかと個人的には感じます。

怨霊説

これも落馬説と同様に、直接怨霊が頼朝をとり殺したという話ではなく、それまでに流した平家、源氏の同族、敵対した豪族や粛清した御家人といった血に対してのメンタル面での影響があったのではないかという話になります。ただ、これもやはり直接の死因には結びつかないでしょう。

また、頼朝は鶴岡八幡宮を建立したり怨霊対策はバッチリだったという専門家の意見もありました。ただ、それだけ気にしていたことの証でもあり、対策したから安心と割り切れるかどうかはその人の性格にもよるので、対策したから気にしてないとは言い切れないとは思います。

空白の3年間

最初に書いたように吾妻鏡には頼朝が死に至る3年間の記録が(少なくとも現在残っているものとして)存在しません。吾妻鏡は北条家が実権を握ってから編纂したものですので、北条に都合の悪いことは結構誤魔化してます。それもあって書けなかったのではないかというのが専門家の間で概ね一致。ただ、現在伝わっている吾妻鏡は徳川家康が集めたものであり、頼朝を神聖視する家康が敢えて捨てさせた、という面白い話もありました。あくまで可能性というか、ほぼ妄想みたいな話ではあります。

暗殺説

これも昔から諸説ある中に残っている話です。実際に、有名な曽我の仇討ちの裏で頼朝暗殺計画があったというのは有名です。この番組でも取り上げています。

ただ、専門家の方々は全会一致で否定しました。曰く、その後の体制を継ぐ存在がいない。昔ながらの猪突猛進な鎌倉武士像でいえば、不満を持った御家人が血気にはやって後のことを考えずに頼朝を討つということもありそうですが、鎌倉武士もそこまで馬鹿じゃない、と。

確かに、頼朝の方針に不満を抱く御家人は存在していたし、それが暴発した可能性はあるものの、その後に起きた粛清の嵐で暗殺の芽は積まれてしまい、その後の頼朝が亡くなる頃にはそんな暗殺をしでかすような勢力はいなかったろうということで一致しました。まあ、そんな勢力がいるとしたら朝廷側でしょうが、後白河法皇と源頼朝のこの時期の関係性は良好ですからね。

鎌倉幕府の成立年は?

自分の世代は「いい国つくろう鎌倉幕府」で1192年でしたが、最近の教科書はいい箱で1185年だそうです。これは、鎌倉幕府というか、源頼朝が鎌倉で政治を始めたというのが何年かということが専門家でも一致していないためで、1192と1185どころか、様々な「幕府ができた年」論があるとのこと。

その中でも番組で注目したのが東国国家論と権門体制論です。それは次の話に繋がるのでひとまず置いておきます。

まず昔ながらの1192年の根拠は、源頼朝が征夷大将軍に任命されたことです。それに対して、最近の教科書が1185年にしたのは同年に平家が滅亡し、頼朝が朝廷から守護・地頭の設置権を得たことにより、実質的に政権を確立したとみなされるためです。実際、初代の頼朝の死から2代将軍頼家が征夷大将軍になるまでは空白期間があります。征夷大将軍という権威づけよりも、実質的な力を得た1185年が事実上の幕府成立だということです。

それに対して専門家の意見としては以下2つが提示されました。

1つは1180年。これは山木を討って挙兵した年です。「鎌倉殿の13人」でも石橋山で敗戦した頼朝が安房に逃れ、下総、上総、武蔵、相模を回って鎌倉に入り、大庭、伊東勢を打ち破った過程が描かれました。その頼朝が山木を討って最初にしたことが伊豆での豪族同士の争いの調停です。これも「鎌倉殿の13人」で描かれています。あまり掘り下げてはいませんでしたが。

もう一つが1190年です。これは上洛した頼朝が後白河法皇によって武官の最高位である右近衞大将に任命されたことにより、様々な権利が確立されたことをもって幕府成立とする考え方です。

個人的には1180年の時点では、まだ勝手に任免権があると自称している段階なので、そこが幕府の出発点ではあったとは思いますけど、それを持って幕府成立というのはどうかな?と思います。

ただ、これは鎌倉幕府というのが何ものか、ついては頼朝が目指したものが何か、ということに関わるということで、次の議論に進みます。

頼朝の作りたかった「国」とは

これを「国」と言ってしまうと、この後の議論のように混乱してしまう気がします。番組を見て専門家の方々は番組的に東国国家論と権門体制論に二分されますが、実質言ってることは変わらないと感じました。ただ、「国」とは何かというところで話が食い違ったように感じます。

東国国家論とは、頼朝や御家人たちは朝廷とは別に東国に自分達のパラダイスを作りたかったのだという話です。権門体制論は朝廷というか、治天の君である天皇の下に、公家、寺社という既存の権門がある中に、武家も第三の権門として加わりたいという話です。今まで公家の傭兵扱いだった武家ですが、それを公家や寺社と同等の権限を持つ集団として認めてほしいということです。

専門家の間でも別に治天の君や朝廷に取って代わろうという意図は無かったことは一致しており、後は「国」の捉え方に過ぎないと感じます。日本では一つの政体が日本全体を収めているイメージが強いので国と言ってしまうと違和感が強くなるように感じます。ただ、イギリス連邦とか現在のアメリカ合衆国とかを考えれば、治天の君の下に東に源頼朝の自治する自治領があるという考え方もないわけではないので、捉え方の違いに過ぎないと思いました。

北条時政という人

話は続いて、頼朝の死後の鎌倉に移ります。最初にちょろっと話が出たのが北条時政。一般には頼朝の舅として早くから権力を握っていたイメージがある時政ですが、専門家曰く「頼朝時代には何の権力もなかった」。

まあ、流石にこれは言い過ぎな気はします。確かに挙兵当時は一回の田舎豪族ですし、そもそもその頃頼朝の下には居ません。甲斐武田氏に交渉に行って、そのまま一緒に動いてました。その後は、先日の「鎌倉殿の13人」でも描かれた亀の前事件をきっかけに、義時と政子を残して一族率いて伊豆に戻ってしまいます。

が、その後、京で行政官的に朝廷との窓口を務めたり、後妻の牧氏の縁か京との繋がりを武器に権力を手にしていきます。

源頼家と源実朝

続いて、二代将軍頼家の話になります。彼は北条氏にとっては不都合なので、吾妻鏡には割と悪様に暗君扱いされています。その結果として、頼家自身はお飾りで、13人の合議制を取ったとされ、その筆頭が北条時政です。さらに、息子の義時も選ばれており、13人に一族で二人入っているのは北条だけ、と説明します。

ただ、これちょっと都合のいいように話を持っていこうとしてます。13人のうちである三浦義澄と和田義盛は同じ三浦氏の出です。三浦義澄の兄の子が和田義盛です。元々は三浦氏は兄が継ぐはずだったのが、戦死したために次男の義澄が継いでいます。また、京からやってきた行政官僚的役割の大江広元と中原親能も兄弟です。そもそも大江広元が大江姓になったのは1216年。頼家が鎌倉殿になったのが1199年です。合議制の頃はどちらも中原姓です。ですので、北条氏だけが13人の合議制に二人を送り込んだというのはミスリードです。

そもそも13人の合議制と言っても、13人が寄り合って何かを決める定期、不定期の場があったわけではありません。番組中にも触れてましたが翌年には3人が亡くなっており、はんば名誉職というか、単に顧問・相談役みたいな立場も含んでます。

そんなわけで、彼は名君か暗君かという問いが投げかけられます。専門家の意見は割れました。当時の他の史料では名君の器だったという記載もあり、吾妻鏡の暗君像とは一致しません。

その跡を継いだ実朝も、結局若くして暗殺され、頼朝の血筋は絶えます。専門家の一人はそこで頼朝の死ぬ直前の空白の3年間の秘密がここにあるのではないかと説きます。

頼家には息子の一幡が居ました。他に実朝を暗殺した公暁含めて全部で四男一女が確認されています。頼朝が死ぬ前年に一幡が生まれますが、その際に頼朝が頼家の次は一幡と宣言していたのではないかと推測しています。当時の武家の習いとしては至極当然の流れで何の不思議もありません。ただ、北条氏はそれを勢力争いのために強引に覆したために、書くに書けなかったのではないかという推測になります。

この辺りは先日の「鎌倉殿の13人」でも少し描かれています。生まれた子供(のちの頼家)のために頼朝が乳母夫を比企能員と決めます。当時は乳母、乳母夫とその子供の絆は深く、頼朝の乳母である比企尼は一族の子供たちに頼朝を支援させましたし、その結果、乳母夫やその一族は親戚枠として権力を持ちます。当時、伊豆出身で相模に進出してきた北条氏は武蔵を狙っており、その武蔵で力を持っていたのが比企や畠山になります。畠山はすでに北条の手で粛清されていました。さらに、一幡の母親はその比企能員の娘です。

そんな中、源頼家が一時危篤になるという非常事態が発生します。跡を継ぐのは当然頼家の息子である一幡です。そして一幡のバックには比企能員が居ます。そうなると北条対比企の構図も比企有利になります。それを恐れた北条時政が先手を打って比企能員を謀殺し、一幡も義時によって殺されます。一種のクーデターとも言えます。

それを後から知って驚いたのが奇跡的に回復した頼家です。彼は激怒しますがすでに事後であり、今更北条に反して頼家に従う御家人も少なく、伊豆に追放されてしまいます。危篤になって回復したというとびっくりしますが、心筋梗塞とか脳梗塞、脳血栓とか、一時は危なくなっても回復することもあります。まあ、今と当時では医療水準が全然違うので単純に比較できませんけど、時政もまさか回復するとは思ってなかったのでしょう。

話を戻して、空白の3年間の背後に後継問題というのは面白いです。が、別にごっそり3年を削る必要もありません。他でもいくらでも北条の都合の良い話だけ残しているので、今更一幡の存在が都合が悪いからと3年間を空白にする必要性もありません。ですので、面白いですがそれが空白の理由ではないと思います。

政子はどちらの味方?

この話題から話は北条政子の立ち位置的に、源氏側なのか、北条側なのか?という話に進みます。

これは専門家の方々もちょっと見解が割れました。基本的には当時の後家は後継がまだ若年だったりすると実質的な家長として力を持ちます。江戸時代あたりを念頭に女性の地位が低いと考える方も多いですが、後家(未亡人)もちゃんと相続します。なので、頼朝の乳母である比企尼は夫が亡くなった後の比企氏の実質的家長として頼朝支援ができたのです。

とは言っても北条のことは全く考えないということはなく、専門家からも政子は実朝亡き後に源氏の一族を根絶やしにしたとか、頼朝の血であっても自分以外の血を引く子供はどうでもよかったという話が出てきます。基本的に源家の実質的な家長として振る舞うが、自分の血筋や北条氏が大事で、頼家の子である一幡よりは、自分の子であり北条が背後についている実朝(当時は千幡)の方が可愛い、という結論になるかと思います。

鎌倉vs朝廷

最後の話題が承久の乱。つまり、鎌倉対朝廷になります。これについては、専門家からは「鎌倉としては望まぬ戦い、売られた喧嘩を買ったら思わぬ方向に転がった」という意見が出ました。

別に鎌倉としては積極的に朝廷を上回る力を得ようとかは考えていなかった。ただ、突如北条義時討伐令が出てしまい、それは大変と京に攻め込む流れになった挙句、朝廷を操るまでの力を手に入れ、それが長い武家時代につながった、という結論になります。

そういう意味で専門家も言っていましたが、誰も意図していなかったのに歴史の転換点に結果的になってしまったわけです。

指定暴力団 源組

専門家の中で面白かったのが、指定暴力団 源組という話です。頼朝はその初代組長で、政子は極道の妻である、という話です。実際、頼朝は義仲や行家といった他の源氏を打ち破り、さらには御家人たちも勢力争いの中で血で血を洗う抗争を繰り広げているので、まさに仁義なき極道、任侠の世界です。

鎌倉時代は面白い

鎌倉時代、特に初期はまだまだ一種の開拓時代のようなもので、色々面白いです。室町や江戸の幕府は鎌倉幕府を手本としており、先達が存在したわけです。が、鎌倉幕府は先達もない、それまでなかった全く新しい政体です。もちろん、既存の朝廷の体制を流用しているので全くの0からではありませんし、平家政権の成功や失敗をお手本にしているかと思います。

ただ、関東地方で平家の圧力下で暮らしていた坂東武者たちが時代の流れに乗って、平家を倒し、奥州藤原氏を打倒し、さらには朝廷にすら影響力を持つまでになり、打倒した勢力のいた土地に爆発的に広がっていくあたりは、他の時代にはないダイナミックな動きがあります。まあ、ピークはその辺りまでで、蒙古襲来のあたりくらいになると広がる先がなくなってジリ貧になっていくわけですが。

そんなダイナミックな時代の面白さを出すことなく、義時個人のホームドラマをしている「鎌倉殿の13人」よりも、よほど面白い番組でした。


再放送予定は現時点ではないようですが、NHKオンデマンドで視聴は可能です。

趣味鎌倉時代

Posted by woinary