「鎌倉殿の13人」第31回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第31回。ついに比企能員の変。タイトルは「諦めが悪い男」ですが、諦めが早い男ではないかという気も。また、本大河らしい描かれてない部分が多いので補足していきます。
丸腰で時政の館に向かう比企、あれではただの道化
頼朝死後の2番目の政変である比企能員の変。ついにこの時が来てしまいました。実際には北条時政の陰謀とされる比企の変ですが、なぜか本大河では主役である江間義時主導に。
色々と哀れな比企能員像
本大河では北条に滅ぼされた御家人は割りを食うのですが、あるいはその最たるものが比企能員かもしれません。石橋山の合戦を持ち出して決断した北条時政と決断できなかった比企能員という対比を描きました。このための伏線として、以前にも鎧を着込んでたことがありましたね。
今回も変なところで格好をつけて丸腰(と言いつつ、無駄に鎧を着込でましたが、あれ意味ないですよね?)で名越の北条時政邸に向かいます。その理由が「時政も坂東武者なんだから丸腰の者を討つはずがない」という謎理論。挙句に時政に「お前は坂東の生まれじゃないから知らないだろうが勝つためならなんでもやるのが坂東武者だ」と啖呵を切られます。
実際、京側の日記では比企能員は阿波の生まれという記載があるそう。そうなると確かに坂東生まれではないのですが、これは「安房」の誤記ではないかという説もあるそう。一説には三浦一族の和田氏の縁者という説もあるとか。なお、今回の「紀行」で触れていた妙本寺を建てた比企能本(よしもと)の母親が三浦出身で出家して「妙本」と名乗ったとのこと。比企尼自体は元々京の出身らしいので、比企能員も京近辺の生まれという可能性もあります。結局、「坂東生まれ」なのかどうかも含めて、出生年も出生地も親もよくわからないのが比企能員。
もっとも、それは北条時政も同じ。頼朝挙兵前の時政のこともよくわかっていません。というか、偉そうに坂東武者を自称していた時政ですが、彼もまた京の出身じゃないかという説も。だから、京出身の牧の方(りく)を妻に迎えていたり、頼朝晩年には京で頼朝の代理人として取り仕切っていたという話もあります。
今回、江間義時が偉そうに「父上(時政)が政治をできるか?」なんて問うていましたが、それをいうなら政治家としての実績は義時よりもよほどありました。本大河では妻に頭の上がらない好々爺として描いているので仕方ないのですけど。そういう意味では、比企能員にしろ、北条時政にしろ、阿野全成にしろ、源義経にしろ、話を面白おかしくするために全方向に喧嘩を売っていくスタイルのようです。
実際の比企能員の変
まあ、「実際の」と言っても吾妻鏡が元になるので、そもそも胡散臭い話です。今回の話でも出てきた一幡と千幡の分割相続案も吾妻鏡由来です。それを比企能員が蹴ったことで謀反人として処理したと吾妻鏡では書いています。この辺の時系列が大河ではよくわからないので整理しておきます。
- 7/20 頼家が病に倒れる。
- 8/27 頼家危篤。一幡と千幡の分割相続が決定。能員はこれに怒り謀反を企てる。
- 9/2
- 能員が若狭局を通じて頼家に時政討伐を訴える。
- 頼家が能員を呼んで時政追討を承諾する。
- 政子がこれを立ち聞きして時政に伝える。
- 時政が中原広元に比企討伐を相談して黙認を取り付ける。(頼家が療養していたのも広元邸なのでおかしい)
- 時政は能員を法事を理由に名越の自邸に呼び出す。
- 能員は平伏で時政邸にむかい、仁田忠常と天野遠景に誅殺される。
- 能員の従者がことの次第を一族に知らせ、一幡の館である小御所で一族が立て篭もる
- 政子が比企氏が謀反として討伐令を発令、義時を大将に小御所を襲撃。
- 多勢に無勢で比企氏は小御所に火を放ち、一幡の前で自決。一幡も死亡(善児とか出る幕もありません)。
- 9/3 比企の変終結。能員の妻妾と末子で2歳の能本は和田義盛に預けられて安房へ流罪。
- 9/5 頼家が回復。
政子が能員の企みを立ち聞きしたというのは、阿波局(実衣)が結城朝光の処断の話を立ち聞きしたのと同じ流れですが、本大河ではどちらもなかったことにされています。まあ、実際そんな都合よく毎度毎度密談を立ち聞きするのはおかしいので、吾妻鏡が「そういうことにしたかった」だけだとは思います。
ただ、法事で呼びつけたことまでなかったことにしたのは意外でした。法事と言われればまさか武装していくわけにもいかないし、行かないわけにもいかないということで格好の理由づけなのですが、それよりも比企能員を貶めることを優先したようです。
吾妻鏡以外での比企の変
吾妻鏡は北条得宗が都合の良いことばかりを書いた歴史書なので、比企の変について鵜呑みにすることはできません。京側の各種史料では色々と違う話が伝わっています。まあ、鎌倉から離れた京に伝わってきた話なので、こちらもどこまで真実なのかはわからないところも多いです。
はっきりしているのは、9/7の時点で千幡(源実朝)の将軍就任要請が届いたこと、です。また9/1に頼家が亡くなったとの記述が藤原定家の日記「明月記」に残っています。使者の届く期間や9/1に頼家が亡くなったとされるところからこの使者が鎌倉を出たのは9/1か9/2と見られ、比企能員の変の前日ないし当日であろうと推測されています。つまり、この使者を出した時点で比企と一幡を誅殺することは既定事項だったわけです。
ちなみに京の僧の日記では一幡が小御所から脱出したが11/3に捕らえられ、義時の郎党の藤馬というものに刺殺されたとあります。この藤馬というのがどういう人物か分からないし、読み方も分かりません。ただ、善児の育てた後継者が「トウ」ですよね。そのまま読めば「トウマ」と読めるので、トウのモデルは藤馬なのかもしれません。
結局、比企の変とは何だったのか?
歴史上の話はとりあえず置いておくとして、本大河の中では比企の変とはなんだったのでしょう。
頼朝は富士の巻狩の時点で頼家を後継者として広く御家人たちに示したとされています。というか、巻狩自体が狩りや軍事演習が目的というよりは、後継者である頼家のお披露目が目的であったとされています。その頼家の乳母夫は比企能員です。その頼家に変事があれば、当然、一幡が継ぐのが当然とはなります。とは言え、まだ子供ですから、元服してもおかしくない年齢の千幡が継ぐというのもない話ではありません。それもあって分割相続の話も出てきたのでしょう。
ただ、基本的に鎌倉殿の地位を東西に分けて分割相続というのは、比企能員じゃなくてもあり得ないと思うでしょう。それでは混乱の元ですから。だから、源頼朝は弟の義経が腰越状で「源義経」と書いたことに激怒したし、全成も源全成ではなく阿野全成です。ですので、江間義時が比企能員が怒って退出した後に「拒否したのはあちら」と大義名分を得たと言っていたように、実際には分割相続のつもりはなかったと考えるのが普通であり、結局千幡と後ろ盾の北条氏と頼家・一幡と後ろ盾の比企氏の対立であることは間違いないでしょう。
で、結局買った側の北条氏が「勝てば官軍」で敗者の比企能員に全ての責任を被せたので「比企能員の変」な訳です。
義時も「頼朝様ならこうするだろう」ということで、一幡の抹殺を泰時に命じています。ただ、ひとつ甘かったのは今回少し話題が出てきた一幡の弟の善哉を生かした事です。劇中でも出てきた通り、善哉の乳母夫は三浦義村です。善哉が後に実朝暗殺の実行犯とされる「公暁(こうぎょう)」です。公暁はこの件の後、実朝の猶子となるので、義理の子が義理の親を暗殺したことになります。平清盛が幼子だった頼朝らを生かした挙句に源氏によって平家が討たれ、その子孫の実朝は善哉を生かした挙句に実朝を失う羽目になったのです。まあ、これは実朝自身の問題ではなくて背後にいた北条時政や江間義時のせいですが。
なお、今回の話で阿野全成の子、頼全を誅殺した源仲章は実朝暗殺事件の際によりによって北条義時と間違われて斬られたとされています。なんかあまりにも出来過ぎで、本当に頼全を誅殺させたのは頼家・比企氏側だったのか疑いたくなります。仁田忠常や源仲章とか、北条の暗躍に関わった人物たちが不審な死を遂げるのはよくあることなので。
本来、頼家に何かがあれば源家の一切を取り仕切るのは頼朝の妻であった北条政子の役割です。比企尼が比企氏を取りまとめたのと同様です。政子が源家の惣領として一幡か千幡かを決定すれば、少なくとも表向きはそれに御家人が意を唱えることはできません。まあ、そうはいっても御家人あっての源家なのでそう簡単でもないでしょうけど。
そういう意味では時政・政子が千幡後継を打ち出し、それに比企能員が反発したというのもなきにしもあらずです。ただ、本大河では結局比企能員の野望で全てを片付けてしまいました。それ自体は間違ってもないのでしょうが、吾妻鏡では政子が指示していた比企氏討伐令を本大河では一切政子を関わらせなかったのは疑問の残るところです。千幡の乳母夫はあくまで阿野全成であり、その全成亡き後に北条時政の千幡に対する影響力は限定的なものになると思われるので。
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