鎌倉殿の13人」第47回・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第47回。いよいよ次回は最終回というラス前。ついに承久の乱、と思いきや今回は有名な政子の演説まで。乱自体は最終回への持ち越しとなりました。例によってツッコミを入れていきます。

筋書きを変えた政子の演説

今回のクライマックスはやはり尼将軍、政子の演説でしょう。その前に例によって三浦義村がどっちに付くかでウロウロしてましたが。

源頼茂による内裏焼失

前回触れてなかったのでこのまま承久の乱に突入かと思いきや、今回は乱までの経緯がメインで冒頭に出てきました。劇中で「鎌倉の争いのため」と言っていたように、三寅が鎌倉殿になることになったことに不満を持った源頼茂が代理に立てこもって火を付けたのが内裏焼失の原因。これにショックを受けた後鳥羽上皇はしばらく寝込んだとされています。

ただ、この件も色々裏がある模様。そもそも頼茂が挙兵したというよりは後鳥羽上皇が在京御家人に直接命令して源頼茂を襲わせたというのが本当のところのよう。なので、鎌倉のせいというのはどうなのかという気もします。確かに三寅が将軍になることに思うところがないようでもないですが、その裏には後鳥羽上皇側近内の権力争いの話もあって、すべてがすべて鎌倉のせいとも言えないよう。実際、「鎌倉殿の13人」でも慈円が遠ざけられましたよね。慈円を遠ざけるのに積極的だった兼子と、三寅に縁がある西園寺公経や慈円などの公武協調派との対立に源頼茂が巻き込まれた挙句、内裏焼失に至ったとの説もあります。どちらにしろ、先に頼茂討伐を命じたのは後鳥羽上皇なのは確かなよう。それを持って鎌倉のせいというのは責任転嫁ではないかと。

内裏再建計画

焼失した内裏の再建を後鳥羽は目指すのですが、「鎌倉殿の13人」では内裏再建自体には執着はなさそうで、あくまで鎌倉、義時を困らせるための策のような描かれ方です。これはちょっとどうかなと感じます。

今回、慈円に対して後鳥羽が「鎌倉を大事にしろと言ったのはお前だろ」と詰るシーンがありました。後鳥羽は即位の時点で三種の神器の一つ、草薙剣を平家によって持ち出され、壇ノ浦で失われた状態で即位しています。そのことに、非常にコンプレックスを抱いていたと言われています。そのため、自ら剣を鍛えたという伝説もあります。まあ、流石にこれは真実ではなく後世の創作ではないかと言われているようですけど。それはともかく、天賦の才があったのでしょうがあらゆる事柄に通じて自らを高める努力を怠らなかったとも。それも、神器が欠けている状態で即位したことに対するコンプレックスから完全であろうとしたためとも言われています。そのあたり、「鎌倉殿の13人」ではあまり描かれず、変顔するおかしな人扱いなのはちょっとどうかと感じます。

そのコンプレックス持ちの後鳥羽が自身が命じた源頼茂追討で内裏という象徴を失い、合わせていくつかの宝物も失われたわけです。これは政治的にも精神的にも相当な打撃でしょう。

実際、後鳥羽は再建計画を立て、そのための資金を公家、寺社、武家に資金を出すように命じます。決して、鎌倉などの御家人だけに命じたわけではありません。そして、そのいずれからも協力を得られず、計画は断念に至ります。どちらかというと、その八つ当たりで鎌倉に責任転嫁と言うか、ままならない原因を北条義時という個人に勝手に負わせたというのが真相のように感じます。

後鳥羽挙兵の実態

「鎌倉殿の13人」では、後鳥羽の一存で挙兵が決定してしまったかのような描かれ方。まあ、主人公はあくまで北条義時なので、京方の事情を事細かく描く必要性を感じず、またそれだけの尺がなかったというのも確かかと思います。

ただ、朝廷側も決して一枚岩ではありませんでした。この頃の天皇はなかなか複雑です。第82代後鳥羽天皇は上皇となって実権を握っていました。が、その次の83代土御門天皇が上皇として鎌倉との対立には反対を唱えていました。当時の天皇は84代順徳天皇でしたが、彼は挙兵に積極的で後鳥羽を支援するために譲位し、85代仲恭天皇が即位。当時、天皇はさまざまな儀式などを行う必要や、そのための決まり事が多く自由が少なかったのです。そのため、上皇となって自由を得つつ、実権は握るという上皇政治が罷り通っていたわけです。順徳天皇もそれに倣って天皇の地位を息子に譲って自由に動き始めたわけです。また、摂政をはじめとした多くの公家も挙兵に反対側だったとされています。だからこそ、順徳天皇は譲位して支援に回ったわけです。そういう政治的駆け引きも一切描かれませんでした。

上皇挙兵

挙兵の経緯については「鎌倉殿の13人」で描かれた通り。ただ、省かれたのが大江親弘。彼は大江広元の子です。今回、伊賀の方(のえ)の兄が京都守護に就任した後、後鳥羽方に討たれる事件が発生します。実は、京都守護は伊賀光季だけではありませんでした。大江広元もまた京都守護です。

「鎌倉殿の13人」では後鳥羽がいきなり伊賀光季討伐を藤原秀康に命じています。が、本来は大江親広と伊賀光季にも挙兵に参加するように命令が下ったのです。それに応じなかったので伊賀光季は討たれたのです。なので、伊賀の方が「最初から分かっていたのか!」と詰っていましたが、歴史上はそんなことはなかったと思われます。まあ、義時と縁のある伊賀光季が京方に付くとも思えませんが、大江広元の子が京方に付いているので、そこまで単純な話でもないでしょう。

有名な政子の演説

実際には政子が御家人を前にして演説したかどうかは不明。政子の手紙を御家人が代読しただけとの説もあります。ただ、一般的には政子の演説が御家人の心を掴み、妥当上皇で一致したというのが通説です。

ただ、これはかなり猪武者鎌倉武士感の影響を受けているよう。実際には「勝ってる方につく」というのが御家人たちの考え方だったよう。出陣した甲斐武田信光と隣国の小笠原長清が勝つ方に付くという話をしていたという話が残っていたりします。が、北条時房から恩賞を約束されると、積極的に進軍したとも伝わっています。

結局、鎌倉武士にとっては恩賞=土地がすべてだったわけです。これは後の元寇などでも同じ。外国から攻められた元寇ではこれまでの源平合戦や奥州討伐、御家人同士の粛清と違って与える恩賞がなかったために後の幕府崩壊につながったとも言われているくらいです。この辺、院宣と自身の権威で御家人を動かせると勘違いした後鳥羽と、実際に武士の気持ちがわかり、実利を約束した幕府、北条方の認識の差が生んだ必然的な勝利だったとも言えます。

ちなみに、院宣が送られるはずだった有力御家人は武田、小笠原、小山、宇都宮、長沼、足利、三浦、および北条時房(時房ではなく葛西氏との説も)だったそう。

上皇の敵は誰だった?

今回の上皇の下した院宣、あくまで討伐対象は北条義時個人であったというのが記録にある通り。本来、政子や義時は「個人宛」だった討伐対象をあえて鎌倉そのものであるかのように御家人たちに誤認させて、鎌倉を守れ!と演説を打ったというのが定説です。

そこを「鎌倉殿の13人」では定説を覆し、政子は御家人たちに上皇の狙いは義時だけとぶっちゃけています。ぶっちゃけた上で、それでいいのかと問いかけたわけです。

ただ、当時はそもそも鎌倉幕府なんて言葉があったわけではありません。そのため、討伐対象としては個人名を挙げるしかなかったという考え方もあります。今までの院宣や令旨といったものが出された時の対象は、義時のセリフにもあった通り、平清盛だったり源義仲、源頼朝、源義経だったりと、どれも対象は個人です。決して、平家を討てとかではありません。そのため、本当に「鎌倉殿の13人」などで言われているように義時の首を差し出せば解決するのかというと微妙なところというのは御家人も分かっていたのではないかと。

三浦義村は本当に裏切りを画策していたのか

こればかりはまあ実際のところは分かりません。ただ、記録に残っているのは三浦義村はあらかじめ弟の三浦胤義から事前に話を聞いており、上皇からの使者を追い返して院宣を義時に渡した挙句、使者を捉えるように義時に進言したとされています。また、真っ先に執権支持を打ち出し、御家人たちもそれに従ったとも。これは時政追放の時と同じシナリオ。

実際、実朝暗殺事件で公暁を討ったことで、義村は源氏と北条以外では少ない駿河守に就任しています。和田合戦では和田義盛を裏切ったとされていますが、そもそも同族とはいえ一族の長老格で侍所別当という要職に就いていた義盛は義村にとって目の上の瘤という考え方も可能。実際、京方の記録では和田合戦時に義盛のことを「三浦の長者」と表現しています。年齢、役職で上回り、実際本来は三浦の嫡流だった義盛(義盛の父は吉村の父、義澄の兄)と義村が同族とは言えそんなに親しかったのかと言えば、微妙。時政追放から和田合戦まで、実は義時と義村ががっちり組んで仕組んでいたとしても自分はあまり驚きません。いつも微妙な立ち位置にいて、陰謀に加担しているように見えつつ、実際には生き残った上で力をつけていった三浦義村。実は義時と組んで半義時勢力を引き寄せてまとめて始末するための役割を演じていた、というのもあながちないとも言えないのでは?と考えています。それは、義時死後の伊賀の変も同じ。この時も、北条政村を義時の後継と画策した伊賀の方と組んだと見せて、「政子の説得」であっさり泰時方に乗り換えています。機を見るに敏だったのかもしれないし、そもそもそういう役割を果たしていたのかもしれないし。ただ、あの北条が縁者とはいえそんな常に不穏な立ち位置にいた三浦義村を宿老級の扱いにするか?というのも疑問。それなら、義時、政子、義村に裏のつながりがあり、反対勢力を煽って自滅させる役割を持っていたというのもありではないかと。

ただ、結果的に北条得宗家の外戚争いで勝利したのが安達氏だったので、敗れた三浦氏は「実は裏切りを考えていた」とかそういう話を散りばめて正当化しているのではないかという気もします。

いよいよ、最終回

来週はいよいよ承久の乱本編とともに、「鎌倉殿の13人」も最終回。義時の最後がどう描かれるのか?あれだけ伏線を貼りまくった義時の後継を争う伊賀の乱がどう描かれ、義時の死因がどう扱われるのかが気になるところ。っていうか、次回1時間スペシャルとは言え、1話でどう落とし所をつけるのか気になるところです。まあ、義時は鎌倉から動いていないので、泰時と時房が攻め込んで一瞬で勝敗決着!というのもありそうです。実際、挙兵から1か月程度で鎮圧されてしまってますし。