「鎌倉殿の13人」第15回・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第15回。今回は前回からの御家人たちの謀反騒動と上総介の最期です。

流石に、今回の話はあり得ないですが、ただただ上総介が哀れです。

頼朝を脅かすもの

上総介広常とは

さて、今回はともかく上総介広常ですが、彼はどの様な人物だったのか。実は、鎌倉殿である頼朝にとって変わることも可能な名門であったりします。

上総介広常は坂東平氏の名門で、平広常が正式な名前になります。それを言うと、三浦も北条も皆平氏なのですが、その中でも坂東平氏で一番の名門が広常であり、その証が「上総介」と言う名乗りです。彼の一族が代々上総介を継承しており、広常の父である常澄は上総権介、その父の常晴も上総権介です。余談ですが、三浦義澄が成人した時の烏帽子親が常澄であり、澄の一字を貰い受けています。

その広常が平家(伊勢平氏)と反目するきっかけになったのが、平清盛が伊藤(藤原)忠清を上総介に任じたことです。上総介は自分であるという自負があった広常は、平治の乱後従っていた平家と袂を分かち、その結果として頼朝方に付くことになります。

なお、上総介で有名なのは織田上総介、つまり織田信長です。もちろん、彼は正式に上総介に叙任されていたわけではありませんが、上総と縁のゆかりもない織田信長がなぜ上総介なのでしょう。実は織田家の出自は平清盛の嫡男、重盛の次男、資盛とされています。まあ、あくまでそういう設定ですけど。話を戻して、上総介です。桓武平氏の祖である高望王が平の姓を賜った時の官位が上総介であり、これが坂東平氏の起こりになります。つまり、桓武平氏(そして坂東平氏)にとって「上総介」には兵士の棟梁を意味する象徴的な意味があります。平家である伊勢平氏は元を辿れば桓武平氏であり、坂東平氏の庶流になります。都に近いので伊勢の方が偉そうに見えますが、元々を辿れば坂東から離れた傍流となります。ですので、その継承者である上総介広常は坂東兵士を束ねるという自負があったのではないか、という説もあります。

これを頼朝の視点から見るとどうなるか。広常は坂東平氏の名門中の名門ですので、頼朝に取って代わることができる立場です。今回、御家人たちは木曽義仲の嫡男、義高に声をかけたりしていますが、そんなことをするまでもなく、上総介広常自身が坂東武者の頂点に立てるのです。

そして、当の頼朝は平家を討った後は同族の源氏の者たち、つまり頼朝の兄弟はもちろん、甲斐源氏も含めて次々と討ってしまいます。それは頼朝自身の意思だったのか、争いの種を恐れた坂東武者たちの考えなのかは分かりません。頼朝自身が自分の血族以外が「鎌倉殿」になるのを恐れたのかもしれないし、坂東武者自身が派閥が割れて相討ちになるのを恐れて、その芽を全て摘み取ったのかもしれません。もっとも、どのみち御家人同士は血で血を洗う抗争を重ね、最終的に北条得宗家(今回生まれた北条泰時の子孫)が実権を握ります。NHKで先に放送された「鎌倉殿サミット」で、識者の一人が鎌倉幕府を「指定暴力団源組」と称していましたが、本当に広域暴力団鎌倉連合という感じがします。

今回、大江(作中の時代は中原)広元が「最も頼れるものが最も危険」と、まるで「銀河の歴史がまた1ページ」の某登場人物のNo.2不要論みたいなことを言ってますが、まさに、上総介広常は名門という意味でNo.2であり、鎌倉殿の立場を脅かすものだったわけです。まあ、そのNo.2が大江広元自身だったりしますけど。

呪われた上総介?

ついでに鎌倉殿と上総介の因縁には続きがあります。今回、万寿と政子の前に現れた和田義盛。彼が最後に望んだのが上総介でした。結局、色々あって彼は上総介にはなれなかったのですが、それがのちの和田合戦(和田の乱)にもつながります。

この時の将軍は実朝ですが、上総介広常といい、和田義盛といい、鎌倉殿と上総介にはなかなか因縁がある様です。

大規模な謀反劇があり得るのか?

実際、この後の平家滅亡後の富士の巻き狩りで起きた曽我兄弟の仇討ち事件の際に頼朝暗殺未遂が起きた、という説もあったりします。ただ、その時は結局失敗しています。その時の主犯格は北条時政であったとされます。仮に暗殺に成功した場合は、おそらく北条家が擁する実朝を将軍につけるつもりだったかと思います(嫡男であり、二代将軍である頼家の乳母夫は比企能員であり、北条家は力を奮えない)。

が、今回劇中で描かれた謀反劇には担ぎ上げる「頭」が存在しません。そんな状態での挙兵はあり得ないのではないかと思います。まあ、そのために万寿を人質にするか担ぎあげてというシナリオにしていますが、幼児の万寿では頭になりません。さらに、その万寿の乳母一族である比企氏があの場にいないのは不自然です。まあ、足立遠元が居ましたけど。どちらかと言えば武蔵の豪族同士で比企氏に近い畠山重忠が謀反側に付くのもおかしいと感じます。

当時の情勢からして、あの謀反劇は広常の最後を飾るためだけに、色々な事実をねじ伏せて作り上げられた茶番に感じました。いや、お話としてはよくできているとは思うのですが、言うなれば違和感が仕事しすぎて、あの感動にどうしても水を差してしまいます。それなら、広常が頼朝に変わって自分が「鎌倉殿」になろうとした、くらいの風呂敷を広げてくれた方が、なんぼか違和感がなかったかもしれません。

まとめると、以下の点が今回の謀反劇ではおかしすぎて、違和感がすごいです。

  • 頼朝打倒後の体制が不明確(鎌倉武士だってあんな状態で謀反なんか起こしません)
  • 万寿のそばに乳母一族の比企氏が誰もいない
  • 頼朝を廃すということは万寿の立場もなくなり、乳母一族である比企氏の立場がなくなるので、損得で言えば比企氏が御家人側に付くメリットがない
  • 御所を固めたと義時が言っていたが、どこの兵力?主だった御家人は謀反側、梶原景時は軟禁中、比企氏は蝙蝠(まあ、遠い本拠地の武蔵からすぐに兵力は呼べない)、官僚の中原兄弟は兵力がない。安達も本拠は遠い。鎌倉と地続きの三浦はフル兵力を投入可能で鎌倉も詳しいと地の利がある。三浦が本気で謀反を企てたら頼朝方にどうこうできない。義時をはじめとした親衛隊である家子くらいしか兵力がないのでは?

どっちつかずの比企能員

今回、狂言回しに使われたのが比企能員でした。頼朝側に付いていたと思いきや、損得勘定で御家人側についたり、事が終われば御家人たちを厳罰に処すべきとか言い出したり。飛んだ蝙蝠野郎です。上総介広常との対比を描きたかったのでしょうか。

ただ、彼は頼家の乳母一族の立場を利用して北条時政をあと一歩まで追い詰めた実力者です。結局、時政の逆転の一手に敗れてしまいますが。

妻に比企尼(能員と比企尼は親子ではありません。が、猶子という義理の親子関係。ただ夫の財産を相続している後家である比企尼は比企氏において大きな力があります)に頭が上がらなそうで、優柔不断な日和見野郎みたいな描かれ方の能員ですが、かなりの実力者であったのも確かです。なんか、本大河では北条家、ひいては義時を引き立てるために、他の御家人はだいぶ割を食わされています。

頼朝と義時と義村

今回、頼朝(と広元)が上総介をスケープゴートにする策に対して相談された三浦義村は、北条義時に対して「頼朝に似てきている、いい意味で」と意味深なことを言っています。まあ、この後を知っている身からすると、義時と義村はいずれ決別することになります。そして、今回の頼朝や広元もかくやという謀略劇をこの2人が繰り広げることになるので、余計に勘繰ってしまいます。

正直、どの辺が義時が頼朝に似てきているのか分かりずらいですが、なんだかんだ言って頼朝を止めないところでしょうか。そんなことを義村が言っていました。義村が自分を止めてくれるのではないかと。そうだとすると、純情そうで実にずる賢い(しかも無自覚)人物ということになります。

実はこの頃鎌倉にはいなかった広元

前にも書きましたが、この頃はまだ大江姓ではなくて中原姓だった広元は京にいました。兄である中原親能はこの頃には鎌倉に居たようです。が、義経の軍勢と共に京に向かっています。ですので、大江広元が鎌倉殿に上総介がどうのこうのという話は史実の上では不可能です。まあ、本体がでは甲斐に行っていたはずの義時が上総介広常の説得に行っていたりとか、時政も一度安房に来たりとか、ご都合主義がひどいですから。

ただ、広元は「成人してから涙を流した事がない」と自ら述懐している程で、情に流されない冷静な人物とされています。その辺りから、鎌倉殿のために策を弄する役所にされたのかもしれません。

ただ、官位の上からも他の鎌倉御家人よりも位が高い広元は、明らかに頼朝に次ぐNo.2でした。