「鎌倉殿の13人」第10回・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第10回。平家を追い払ったものの坂東武者等の思惑でまずは地盤固めで常陸に赴く頼朝軍、というのが今回のお話。

まあその辺りは良いですが、相変わらずツッコミどころ満載でしたので、今回も主に三浦一族の視点で補足していきます。

史実無視の奇想天外大河ドラマ

いつまでも引きずる八重

ここでも何度も書きましたが、八重自体は実在したかも疑われている人物です。そして、頼朝との間に男子を産んだが、その子は亡くなり、その後の八重の消息は不明というのが実際のところです。

まあ、不明ではあるので物語を膨らますのは構わないですが、広げた風呂敷をどう畳むつもりなのやら。正直、他人を不幸にする魔性の女性という感じです。小四郎が八重に渡した餅を食べて平六が腹を壊しましたしね。

なお、その八重に対して裏で暗躍する亀の前。吾妻鏡では容貌優れ柔和な性格とあります。が、とてもそんな感じではないです。

本作では安房の漁師の嫁とされてしまいましたが、吾妻鏡では伊豆での流人時代から頼朝に支えていたとされます。後に、彼女の存在が元で北条時政と今回登場した牧宗親と頼朝が揉める、つまり北条にとっては敵に近い存在のためにこんな設定にされてしまったと思われます。

なお、その後の亀の前の消息も不明です。

金砂城攻防戦

この一連の話がまあ、色々と改ざんされていました。おそらく、今回冒頭の大庭景親が上総介広常に「せいぜい気をつけるんだな」と言ったあたりから上総介広常と頼朝の不仲を演出して後のストーリーに繋げようという腹かと思います。

ただ、実際の金砂城を巡る佐竹氏との攻防は以下の経緯だったようです。尺の都合か、上総介広常と頼朝の不和を印象付けたかったのでしょう。

  • 佐竹の当主・佐竹孝義は在京のため不在。子の義政、秀義が留守を預かる
  • 当主がいないため判断できないとして佐竹氏は頼朝への帰順を拒否
  • 上総介広常が佐竹義政を呼び出して謀殺。義政自体は帰順に応じるつもりだった
    • 別に義政の余計な一言にブチ切れた広常の暴走ではなく、頼朝からの指示
  • 動揺した佐竹氏からは寝返りもあったが、秀義は籠城
  • 総攻撃をかけるが、作中にあるように堅固な山城で攻めあぐむ
  • 広常の献策で佐竹の一族を寝返らせ、その手引きで金砂城は陥落。

以上のようなわけで、この時点の頼朝と広常の仲は、作中のように不仲ではないし、広常もあんな短期で粗暴な人物ではありませんでした。まあ、後に広常が頼朝を見下すような態度をとったことから誅殺されるのですが、それもまあ勝てば官軍という線が強いです。この辺りの話は吾妻鏡が元になっており、その吾妻鏡は北条に都合の良いように書かれていますので。

この佐竹氏攻めには頼朝自体は積極的ではなく、坂東源氏の佐竹氏と坂東平氏の上総、千葉氏の争いと、その後者と縁故のある三浦をはじめとする坂東武者の思惑があったものと思われます。

突如登場、得体の知れない男・足立遠元

政子に目通りをしたいという人たちと共に現れ、一番得体の知れないと言われてしまう、足立遠元。生没年不詳ですが、1160年の平治の乱で源義平の下で戦っており、あんな若くはないのは確かです。三浦義澄、北条時政と同世代かやや下くらいでしょうか。

坂東武者と義経の対立

これはまあ、平家との戦いとその後の戦後処理を巡って対立することになるので、それを今の時点で匂わせているのでしょうか。個人主義の義経と一族、集団を第一とする坂東武者はそもそも相容れない存在になっています。実際、義経が頼朝と決裂後に従った坂東武者はあまり居ません。

実際、義経の活躍として語られる鵯越ですが、今回ヒヨドリが出てきたのは、それを暗示しているのでしょうか(実際にはツグミでしたが)。ただ、ヒヨドリとツグミって似てますかね?まあ、体長は大体同じくらいですけど、羽の色とかちょっと違います。あと、今はヒヨドリは一年中見ますが、昔は冬だけ日本にやってくる渡鳥だったそうです。

それはさておき、この頃の義経は22歳。ちょっと変人が過ぎるのが気になります。策を出したものの無駄に終わり当たり散らすのはわかるとして、城に見立てた箱庭を崩す様はなんとかとなんとかは紙一重と感じます。初登場時の騙し討ちもちょっと奇人ぶりが酷いと感じました。あれ、何かそういう元ネタがあるのでしょうか?

本作の義経は情緒不安定な奇人なのでしょうか。義理の姉とは言え、兄頼朝の妻であり御台所の政子に何度も膝枕してもらうとか、子供ならともかく22歳というのは当時としては立派な成人ですからね。

その義経に対して、唯一、好意的な発言をするのが時政。単に場を和ませたかったのかもしれません。ただ、頼朝の代理として京で実権を握った義経の死後、その役割を継いだのが時政であり、自信や北条一族、そして坂東武者にとって目の上の瘤である義経と時政との間がらはよくなかったのではないかという話もあります。

その辺りの事情を知っていると、これまた深読みしたくなってきます。ただ、吾妻鏡は割と義経には同情的だったりします。頼朝のことは直接的に悪様には語らないものの、色々と暗示させるような描き方をするのとは対照的です。とは言え、義経と坂東武者が相容れないのは変わりません。

最後の弟、義円

頼朝の弟の一人で、全成と義経の間になる義円(乙若丸)が鎌倉で頼朝に見える所で終わりました。

ただ、これもまた怪しい話だったりします。まず、幕府の準公式記録である吾妻鏡には義円が鎌倉に入ったという記述はありません。

それと言うのも義円はまだ挙兵するしないとやってた頃に出てきた源行家が、1181年に尾張で挙兵したのに従い平家と戦って討ち死にしています。その行家は敗戦後、一時は頼朝を頼るも所領を得られず、木曾義仲の元に走ります。さらに義仲とも不和になり独立勢力として生き残りますが、最終的には鎌倉幕府によって斬首されます。

そんなわけで、その挙兵前年の鎌倉に義円が来るというのもおかしな話だったりします。この後、すぐに頼朝と袂をわかって行家の元に行くのでしょうか?それにしても、あまり頼朝との絡みがない義円をわざわざ出してどうするつもりなのかが気になります。八重と違って義円の最後は明確ですから。