鎌倉殿の13人」第45回・補足
源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第45回。鎌倉最大の悲劇とも言われる実朝暗殺事件の回です。色々大胆な解釈でこれまでにない実朝暗殺事件を描きました。いよいよ物語も終盤。例によってツッコミを入れていきます。
頼朝の血筋は途絶える、北条の鎌倉へ
今回の終盤、政子と義時の対面シーンで出たセリフです。実際に北条が名実ともに実権を握るのは三浦を討った後ですし、その北条も得宗家と反得宗家の派閥抗争と、御内人の台頭で権力を失っていく過程で幕府と共に滅亡へと進みます。結局、鎌倉時代は常に血生臭い時代でした。
「史実」を無視した実朝暗殺
幕府の公式記録である「吾妻鏡」と、在京の慈円による「愚管抄」では実朝暗殺事件の顛末は異なっています。が、そのどちらにも沿わない独自演出で描かれた実朝暗殺。三浦義村がどう動くのか期待して見ていたのですが、ちょっと肩透かし。実朝と公暁をメインに持ってきたかったのかもしれませんが、義村の心境の変化とか、そもそもどういうつもりだったのかはあまり描かれず。義時との対決シーンだけで済まされてしまいました。なんか消化不良です。
ここで、各視点での実朝暗殺に関する顛末を簡単にまとめてみます。
吾妻鏡
実朝が八幡宮拝賀を終え帰る途中、大銀杏から飛び出した公暁が「親の敵はかく討つぞ(親の敵はこうやって討つのだ)」と叫んで斬りかかった。その次に北条義時と誤って源仲章を斬りつける。義時は八幡宮まで太刀持ちとして参列していたが体調不良で帰宅。源仲章が代役を務めたために殺されてしまう。公暁は実朝の首を取り、縁者の家で食事をする。その時も実朝の首を離さなかった。その場から三浦義村に使いを出したところ、義村からは使いを送るとの返答が来た。しかし、その使いが来ないので三浦義村邸に単独で向かう。その途中で討ち手に遭遇、切り結んだのち義村邸の塀を越えようとしたところで討ち取られる。なお、仲章を討ったのは公暁ではなく共の法師たちだったとも。なお、実朝の首はその後行方不明となる。公暁を討ったのは義村の命で公暁を追っていた長尾定景。
愚管抄
八幡宮まで義時が太刀持ちを務めていたのは吾妻鏡と同様。ただ、実朝の命で義時は待機となる。吾妻鏡と違い、公暁は無言で襲撃。襲われた公卿らが逃げてくるまで警護の武士たちも襲撃に気づかなかったとのこと。源仲章は大刀持ちではなく松明を持って実朝を先導していた。義時と間違われて殺されたというのは同じ。ただ実朝の首は後で見つかったとされています。
「鎌倉殿の13人」
まあ、見た人はわかっているでしょうが、結構筋書きを変えています。
義時は仲章に脅され?て太刀持ちの栄誉を交代させられた、という解釈で正しいかと思います。実朝は隠れていた公暁に襲われる訳ですが、真っ先に襲われたのは北条義時(と間違われた源仲章)。彼が絶命したのち、公暁によって実朝が討たれます。その後、その場から逃げ出した公暁は逃げる途中で政子と対面。穏やかに話をします。そこから三浦義村邸に駆け込み食事をしますが、そこで義村に討たれます。その際持っていたのは実朝の首ではなく、かつて「義朝の首」として鎌倉に持ち込まれた髑髏。
頼朝から頼家、実朝と受け継がれてきた誰のものともしれない髑髏が最後に「自分が4代目だ」と告げる公暁に渡ったのち、葬られることになりました。因縁の髑髏ですね。思えば、頼朝の血族が全て非業の死を遂げるという暗示だったのかもしれません。劇中でこの髑髏を持ってきた文覚も後鳥羽上皇に謀反を疑われて対馬へ流される途中で亡くなっています。
なかなかドラマチックに仕上げられていましたが、史実とはだいぶ異なるもので、あくまでドラマを盛り上げるための演出です。
長尾定景とは
劇中には登場しなかった長尾定景。三浦義村の命で公暁を討ったのは彼です。義村の命で動いていることからわかるように御家人ではなく、三浦の郎党です。
元々は頼朝挙兵時に平家方についた大庭景親の従兄弟で、平家方として戦っています。この際、三浦一族の岡崎義実の嫡男、佐奈田義忠を討ち取ったのが彼でした。その後、頼朝に降伏して岡崎義実に預けられます。しかし、義実は定景が法華経を唱える姿を見て頼朝に助命を嘆願。その経緯から三浦の郎党として数々の戦で活躍します。実朝暗殺事件の際はすでに老齢で最初は辞退したものの、義村の度重なる要請に応えて公暁を討ったとされています。
実朝暗殺の黒幕は?
昔は北条義時説、三浦義村説、後鳥羽上皇説、北条義時と三浦義村の共謀説など、様々な黒幕説が唱えられました。ただ、最近は特に後ろ盾はないまま公暁が単独で暴走したのではないかと言われています。
「鎌倉殿の13人」でも大枠としてはこの単独犯行説に基づいているようです。もっとも、義村が公暁を焚き付けるシーンもあるので、義村黒幕説をとっているようにも見えます。この辺の描き方がちょっとモヤモヤする原因。義村が焚き付ける義村黒幕説を取るなら、もう少し義村が公暁を見限る決断をどこでしたのかを明確にしてもらいたい感じがするのですが、正直、前回から今回までの流れで明確な決断が描かれていたようには見ません。
なんか、すごく中途半端に感じます。公暁と実朝を対照的に描くことを実朝暗殺事件のメインに持ってくるなら、あんな焚き付けるシーンや義時と義村の半端な対峙を描く必要があったのでしょうか?それなら、京寄りの政策を進める実朝を義時と義村が排除したという義時・義村共謀説をとった方がわかりやすかったように感じます。義村は謀略家とか知恵者と言われているのに、どうにも中途半端な覚悟で関わっては流されているだけに見えてしまいます。
描かれなかった三浦義村と政子の関係
三浦贔屓としては和田合戦の件と言い、今回の件と言い、ちょっと三浦を軽んじ過ぎているように感じます。
実は時政追放についても義村は深く関わっていた可能性が高いのです。吾妻鏡でも実朝を時政邸から義時邸に移す際の使者として登場していますが、愚管抄ではもっと中心的な関わりを持っていたと描かれています。
時政の陰謀(実朝を廃して娘婿の平賀朝雅を将軍にする)を知った政子が真っ先に呼び出して相談したのが三浦義村とされているのです。なぜか。先日の雑誌「歴史人」の記事に書かれていますが、それは三浦の地の利です。「鎌倉殿の13人」では政子と義時の間は微妙に距離感がありますが、一般には二人は一心同体であったとされています。その義時を差し置いて義村に相談した訳です。
それは、義時に話せば当然ながら時政にも伝わってしまうため。同じ北条家で時政に無断で義時が兵力を動かすことは難しいだろうという見解です。一方、三浦は鎌倉のすぐそばに本拠地を持ちます。即座に鎌倉にある程度の兵力を動かせるものは限られており、その中でも最大兵力を擁するのが三浦氏だった訳です。吾妻鏡では時政の牧の方(りく)は策がならなかったことを察して自ら伊豆へ退去したとされていますが、愚管抄では義村率いる三浦勢が時政を伊豆へ送ったとされています。
まあ、そこまで義村が目立ってしまうと主役である義時が霞んでしまいかねないので、こういう描き方になってしまうのは仕方ないのかもしれませんが。やや残念な扱いです。ただ、普通に義村の盟友として描いても良かったのではと感じます。一般に三浦義村は裏切りの人と呼ばれ、同族の和田義盛や乳母子である公暁を裏切ったとも言われています。ただ、彼は義時存命中に北条家の不利になることは一切していません。それは同族の和田義盛を裏切ってまで、です。
もっとも、義村にとって一族ではあっても和田義盛にそれほど親近感はなく、かえって目の上の瘤だったという見解もあるのです。和田義盛の父は元々義盛や義村の祖父である三浦義明の嫡男でした。しかし、合戦で亡くなったために次男である三浦義澄が三浦氏の家督を継ぎます。その子である和田義盛は世が世なら三浦氏の家督を継いでいたかもしれないわけです。そして、彼は侍所別当になります。家督は義澄亡き後は義村が継いだものの、一族の長老であり、幕府の要職についている和田義盛の影響力は大きかったわけです。しかも、彼は当時は拠点を三浦半島の本来の拠点であった和田から上総に移しています。実際、愚管抄では和田合戦について義盛を「三浦の長者」と記しています。義村からすれば色々と経緯もある父の兄の子で年長で要職にある義盛より、母の姉妹の子である北条義時の方を好ましく思っていた可能性もあるわけです。年齢も近いですしね。義時は時政、義村は義盛という目の上の瘤で前世代の老人たちと対峙していたわけで、同志として共謀というのは当然あり得たと感じます。実際、政略結婚ということもあるでしょうが、泰時の妻は義村の娘です。そして、義時の子、政村の烏帽子親は名前で分かる通り義村です。
この後、描かれるのか不透明な承久の乱でも北条義時追討の令旨を受け取った三浦義村はそのまま北条義時に伝えたり、政子の相談に乗ったりしています。そして、義時死後は宿老として政子や泰時を支えているわけです。まあ、泰時の継承に関しては伊賀の方(のえ)が自分の子である政村を後継にしようとする企みに義村も当初は参加したとされています。が、政子が談判して自勢力に引き込んだと。ただ、なにしろ吾妻鏡の記述です。のちに義村の子、泰村・光村の代の宝治合戦で三浦氏は北条氏と敵対(というよりは安達景盛と敵対、さらに言えば将軍派と執権派の派閥構想)して滅ぼされたがために、吾妻鏡にことあるごとに謀略を巡らせていたと書かれているだけなのではないかという気もしてきます。
残りわずかな「鎌倉殿の13人」はどこまで描かれるのか
放送があと何回あるのかよくわかりませんが、次週が最終回ではないのであと2回でしょうか。どうも承久の乱を詳細に描く気はなさそう。まあ、承久の乱では平家討伐時の頼朝のように鎌倉から動かなかった義時です。源平合戦をあまり深く描かなかった「鎌倉殿の13人」ではあっさりと済まされそうです。そうするとどこまで描かれるのか。今回の終盤で伊賀の方(のえ)との不穏な関係も出てきましたが、義時の死については伊賀の方による毒殺説もあります。その辺りまで描くのか、そもそもどういう幕引きにするのか。最後どうするのかがとても気になります。
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