「鎌倉殿の13人」第42回・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第42回。OPでのナレーションでは実朝が覚醒したと言っていましたが、今回、政子が覚醒した感じ。政子の思惑は一体どこにあるのか、終盤に向けて気になるところです。今回も例によってツッコミを入れていきます。

ラストに向けて動き出す人間模様

自らが真の鎌倉殿になるために動き出す源実朝。しかし、それをよく思わない北条義時は様々な妨害を繰り広げます。頼家のように政治に関わって命を失うような悲劇を避けるために憎まれ役を買って出る北条義時、と言い切るにはややダークさが強いのですが、果たしてどうなるのか。そして、その想いは同じはずの政子が実朝に加担するような動きをして反北条に動き出す真意は?ということで、ラストに向けて面白くなってきました。

宋へ自ら渡る夢、果てる

今回の陳和卿との謁見から宋へ渡るための大船を作り、結局は朽ちることになったという話は概ね史実通り。史実では1216年11月24日に建造を命じます。まあ、史実と言っても源氏正統には含むところがある吾妻鏡基準の話。

劇中では大江広元に逃げるなと告げられた政子は「皆を集めなさい」と言った後に何を語ったのかが明示されませんでした。ただ、その後、結局建造が続いたようなので、政子は建造を認めたのではないかと思います。しかし、実際には政子の意志に反して、建造を強引に続けたとされています。船は1217年4月17日に完成。しかし、船は重すぎ、浮かぶことなくそのまま座礁したとされています。つまり、ここまでで2点、史実と異なっている点があります。

内容鎌倉殿の13人吾妻鏡
政子の態度大船建造に同意?大船建造に反対
建造の結果重すぎて動かすことができず、進水も叶わず進水には成功したが、重すぎて座礁
「鎌倉殿と13人」と史実の相違点

政子の態度を変えたのは、政子に実朝の後押しをさせるのが今後の展開で必要だったのでしょう。結果については単に撮影の都合でしょうか。

将軍後継問題

今回話が出た将軍後継問題ですが「鎌倉殿の13人」はやや先走りしてる感じです。
今回「鎌倉殿の13人」では触れられなかった吾妻鏡にある話が、官位の話。実はこの1216年の6月には朝廷に奏上して権中納言に任じられます。が、7月にはさらに左近衛中将に。心配した大江広元が諌めたのですが、実朝は「子孫が継ぐことはないので官職で家名を残したい」と応えたと言います。今回、ラスト近くで子はできないから養子を取るという話にもつながります。

ただ、この話が出たのは大船の件のさらに翌年、1218年。政子が熊野に参詣したついでに京を訪れ、藤原兼子と上皇の子を東下させる相談をしたとされています。

ただ吾妻鏡の書いていることなので、そのまま真正面に受け止めるのも危険。北条得宗の簒奪を正当化するために、実朝がこんなことを言っていたとしているのかもしれません。

なお、今回の話でも頼家の遺児、公暁を還俗させる話が出たものの、そう簡単にはできないと養子を取る方向に進みます。ただ、「鎌倉殿の13人」で公暁が京に行く時の話で公暁は実朝の猶子(養子)になっています。平賀朝雅が頼朝の猶子であったように、必ずしも猶子が後継者になるわけではありません。しかし、それは実子がいたからでもありますし、実際、頼家を廃して朝雅を鎌倉殿にしようと時政と牧の方は画策しました。政子は頼家の遺児を政治に関わらせないように出家させたとも言われる中、一方でその出家している公暁を猶子にしているのは矛盾しているようにも感じます。

今回、政子はおそらく実朝の大船建造を後押しし、さらには自分は身を引き、「西のお方」から養子をとって大御所になるという実朝を後押し、義時と対立するかの様な態度を見せます。ただ、それをそのまま受け取って良いものか。義時は実朝を表舞台から遠ざけ、自分が嫌われ者になることで守ろうとしている、とも受け取れます。一方、政子は完全に実朝を政治から外すことを狙っているのではないかという気も。今回、丹後局と話て「腹をくくった」政子がどう腹をくくったのかが、今後見えてくるのかと思います。

お茶目上皇

冒頭、実朝の夢の中でおかしな上皇が出てきて不思議なやりとりをします。大船建造のきっかけとなった夢の話に繋げるための筋書きでしょうか。しかし、本編のシリアスさとの落差を演出するためか、夢の中の上皇はかなりお茶目。一体、実朝の中での上皇像はどんなことになっているのやら。最後、シュワッチ!とか言って飛び去るのかと思いましたよ。

まだ出ぬ五男、政村

牧の方(りく)なき後の北条家を裏で操ろうと画策する伊賀の方(のえ)ですが、なぜか彼女と義時の子である五男、政村がまだ登場しません。

政村は和田合戦の年に元服し、三浦義村を烏帽子親として「村」の一字をもらっています。この政村を義時の死後に後継につけようと画策したのが伊賀氏の乱。義時の死後の話ですし、伊賀の方をやたらと悪女として描く割に肝心の政村が登場する気配がないのは、そこまでやる気がないからでしょうか。なお、義時は自然死ではなく、伊賀の方が毒殺したという説もあります。「鎌倉殿の13人」での伊賀の方の扱いからは毒殺してもおかしくはない感じもしますが、どうするのでしょうね。主人公が身内に毒殺される大河というのも前代未聞ですが。

まあ、この「鎌倉殿の13人」では幕府で重要な役目を果たしていた人も出てこなかったりするので今更ですけど。そうかと思うと、突然出てきたりするのですが。

牧の方の名誉のために

今回、ラストで北条時政が登場。それによると牧の方(りく)は京に行ってしまったとのこと。批判も多い牧の方ですが、京に向かったのは時政の死後とされています。時政が亡くなった後、平賀朝雅に嫁いだ娘が京に残っていたのでそこへ身を寄せています。娘は公家に再嫁したのですが、その邸で時政の13回忌を行ったと藤原定家の日記、明月記に記されています。

実朝事件と源氏将軍の最後

さて、今回のラストでついに頼家の遺児、公暁が鎌倉に帰ってきます。比企尼によって呪いを植え付けられた公暁が、鎌倉に試練を突きつけます。この事件自体は、いまだに諸説入り乱れ謎が多い事件です。首謀者についても色々な説が取り沙汰されています。それを「鎌倉殿の13人」ではどう描くのか。ただ、結果論としては実朝事件で一番得をしたのは明らかに北条得宗なのですが。

2022-11-13趣味三浦一族,大河ドラマ,鎌倉時代,鎌倉殿の13人

Posted by woinary