「鎌倉殿の13人」第38回・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第38回。牧氏事件の後編です。結構、オリジナルの筋書きをぶっ込んできました。あと、暗殺者と素手で互角に戦う三浦義村。見応えのあるシーンではありますが、なんの意味があったのかが今ひとつよくわからないです。それはさておき、例によってツッコミを入れておきます。

何ともすっきりしない牧氏事件の顛末

なんとなくいい話に落ち着けてますが、正直、そんな中途半端なことなら事件を起こすなよ、という感じがしました。

義時は執権になったのか?

牧の方(りく)の「はなむけ」で決意して2台目執権になった義時。意地悪なことを言えば、「執権別当」という謎用語はやめたのかな?というのは気になるところです。「執権別当」という表現がおかしいという話は過去に2回くらいしたので改めて取り上げませんけど。ただ、相変わらず「ほうじょうよしとき」と本姓ではない北条に「の」を付けるのはやめないようですけど。

それはさておき、義時は執権になったのか?という話です。吾妻鏡では時政に代わって政所別当になった旨の記載はあるとか。ただ、1209年に実朝が政所を開くまで義時の署名がないことから執権就任は1209年ではないかという説があります。

また、そもそも本当に執権として権力を振るったのは子の泰時からで、吾妻鏡は遡って「時政、義時も執権だった」ということにしたのではないかという説もあります。正しいところはわかりませんが、この頃の義時は同じく政所別当の中原広元(大江広元)や、頼朝の側近中の側近だった安達盛長の嫡男、景盛らと連携しており、時政末期のような振る舞いはしていなかったとされています。そこからすると、今回ラストに鎌倉を守るためとは言え、自らの権力を誇示するかのような振る舞いはちょっとどうかと思います。

ちなみに、ラストで上皇は義時の名を知らなかったような描写があります。ただ、この前年、北条義時は相模国司に就任しています。当然、上皇の名の元で行われたはずで、知らないこともないはずなのですけどね。

平賀朝雅の最後

今回終盤に鎌倉からの指示で殺された平賀朝雅。ちょっと情けない感じの死に方だったので、少しフォローしておきます。

吾妻鏡によると、後鳥羽上皇との囲碁会に参加していたが鎌倉からの死者が上ってきたことを知った平賀朝雅は、上皇にその旨を伝えて暇乞いをします。藤原定家の日記、明月記では御所の夜の警戒をしていた所に使者が来たので、席を外すがすぐ戻ると告げて退出したとあります。

明月記や慈円の日記、愚管抄によると、幕府は実朝の名で朝雅追討を上皇に奏上、朝雅の家を取り囲むもわざと退路を開けておいたので朝雅は大津まで落ちます。その後、自害したとされています。あんな最後ではなかったようです。

義時の視点から牧氏事件を見てみる

さて、この牧氏事件で一番得をしたのは誰でしょう?もちろん、北条義時です。状況的には真っ黒です。当時の義時の立場は実は危ういものだった、という説も。言わば、比企能員の変の直前の北条家と似ています。

  • 本来、北条家は時政と牧の方(りく)の子である政範(京で変死)が相続するはずだった
  • そのため、義時自身は北条家の分家である江間家の当主という位置付け
    • ただし、義時の後継という立場は変わらなかったという説も
  • また、時政と牧の方(りく)の娘の婿である平賀朝雅の存在も目の上のこぶ。
    • 以前に書きましたが、朝雅は頼朝の猶子であり、鎌倉の源氏一門の筆頭。
    • この頃の鎌倉御家人で、国司として任官していたのは平賀朝雅(従五位上、武蔵守・伊賀守)、北条時政(従五位下、駿河守)、義時(従四位下、相模守)、足利義兼(朝雅同様に時政の娘婿だが、「鎌倉殿の13人」には登場せず。後に室町幕府を開いた足利尊氏は子孫、上総介)くらいのはず
  • その政範の死により、立場的には義時の北条家相続が濃厚になったことで時政が焦ったという説も。比企能員の変と同じ構図ですが、今度は失敗したということに

牧氏事件で時政が出家、伊豆に流されたことで政所別当となり、北条家の後継者になり、身分的にも御家人筆頭の地位を固めます。ラストで三浦義村が「御家人筆頭は義時しか居ない」と述べましたが、時政と朝雅がいなくなったことで名実ともに御家人筆頭になったわけです(中原(大江)広元、三好康信、二階堂行政らは文官であって御家人ではない)。誰が一番得をしたかは明白ですよね。

牧の方のその後

時政との夫婦仲は良かったとされる牧の方(りく)ですが、1215年に時政が亡くなると、念願の京に戻ります。朝雅の妻だった娘が公家の権中納言、藤原国通と再婚していたので、そこに身を寄せます。没年は不詳ですが、一説によれば1229年とされています。義時の没年が1225年ですので、これが正しければ義時より長生きしたことになります。女性は強いですね。

残り2ヶ月ちょっと、物語はどこまで進むのか

現在は1205年。義時が亡くなるまでとして、大きなイベントはこんな所です。

  • 1213年 和田合戦
  • 1219年 実朝暗殺
  • 1221年 承久の乱
  • 1225年 義時没

残り話数は10話くらい、かつ、来週は間の話みたいなので、各イベント2話ずつで間に1話挟むくらいのペースでしょうか。正直、上記イベントの間の細かいイベントは拾えそうになく、実朝後の鎌倉事情もろくに描かれずに終わりそう。