「鎌倉殿の13人」第30回・補足

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源平合戦の時代〜鎌倉幕府成立の時代を描く大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も第30回。頼朝の最後の兄弟、全成も亡くなってしまいました。本当に全成を死に追いやったのは誰だったのか。そして、江間義時がついに本気になるのか。物語も中盤から終盤へとなだれ込む様です。

北条と比企に巻き込まれた全成、でも本当に死んで欲しかったのは…

ある意味ムードメーカーだった全成。彼もついに最期の時を迎えてしまいました。思えば、登場時からちょっと抜けた感じで扱われ続けた全成。でも今回チラッと触れられてましたが彼は「悪禅師」と呼ばれていたのですよね。さて、そんな全成はどんな人物だったのか。

本当は御家人だった全成

さて、当ブログでは何度も書いていますが、全成は阿野全成という鎌倉幕府の御家人です。実際に阿野荘という領地も賜っています。まあ、赴任していたとは思えないので代官任せだったのではないかと思います。

その全成は源義朝と常盤御前の子供です。頼朝の異母弟で義円と義経の同母兄になります。平治の乱で父である義朝が平家に敗れると醍醐寺で出家させられました。荒くれぶりから「悪禅師」と呼ばれたほどですので、本大河のちょっとなよっとしていて頼りない感じとはイメージが少し違います。
ちなみに「悪」と言うと現代的には悪者のイメージですがそうではありません。兄弟の長兄である源義平も「悪源太」と呼ばれたりしていますが、現代的な道義上の善悪というよりは、力強いという意味合いです。超訳すると強面とかあるいはマッチョとかいう感じでしょうか。鎌倉殿の13人で言えば、八田知家役の市原隼人さんなんか「悪」って感じがします。

最後の「紀行」では鎌倉幕府を兄と共に支えた功労者的な扱いでしたが、実は吾妻鏡にはあまり出てきません。吾妻鏡の頼朝時代には全く全成は登場せず、妻である阿波局(実衣)や娘婿である藤原公佐の絡みで出てくるだけの脇役扱いです。本大河では一切登場しませんが、子供も男女合わせて9人が確認されています。その娘が嫁入りしたのが藤原公佐という人物で、阿野の家名を公家として受け継ぎ、その子孫は後村上天皇の生母となります。女系とはいえ後世まで子孫を残した上に天皇家につながるという、ある意味頼朝関係者の中でも一番の勝ち組かもしれません。

なお、本大河では僧扱いの全成ですが、何回か前に念仏の僧を殺そうとして「僧職を殺すと天罰が」と北条時房らが必死に止めたのですよね。本大河では一貫して僧扱いなのに、全成は殺しても良いのですかね?
まあ本大河では頼家を呪詛しようとしたことになっているのですから仕方ないですけど。もちろん、吾妻鏡には呪詛云々なんて話はなく、全成が謀反を企んだとされています。

八田知家はどんな人物

今回のもう一人の主役といえば八田知家でしょう。生年がはっきりしていて1142年。本大河では義時とさほど変わらぬ年回りに見えますが実は21歳も年上。和田義盛よりもさらに5歳年上です。実は梶原景時の2つ下です。今回の話が1203年の話なので還暦過ぎてますね。とても還暦過ぎには見えませんね。

実はこの八田知家も比企や北条に負けず劣らずです。義経の無断任官が頼朝との不仲の原因とされていますが、彼も同時期に無断任官して頼朝に罵倒されたとあります。その後、奥州征伐では活躍しますが、例の曽我の仇討ちの際に北条時政と組んで従兄弟から奪った常陸に拠点を移したりするほどのやり手です。信長の野望シリーズで弱小大名としてお馴染みの小田氏は八田友家の子孫です。

本大河では現時点で比企側に出入りしていますが、比企能員の変では北条側にも加わらず、家が残っていることからも当然比企にもつかず。そのくせ、その後も室町時代から戦国時代にかけて生き残ったことになります。

本当に全成を殺したのは誰か

吾妻鏡では阿野全成は北条時政側について、頼家と比企能員派と対立したとされています。その割には、頼家により捕縛された全成は常陸に流されたのを静観します。もちろん、娘の阿波局は死守したのは今回描かれた通りです。

ちなみに、阿波局(実衣)が主役になったのが梶原景時の変。本大河では結城朝光に梶原景時に狙われていると聞いてなんとかしようと動いた結果、梶原景時の失脚につながります。その裏には三浦義村がいたことになっています。実際には、御所に出入りしている阿波局がたまたま聞いた処分の件を朝光に伝えた結果、朝光が御家人達に助けを求めたことになっています。その後、比企の変ではこの結城朝光をはじめ、親戚つながりの小山朝政、長沼宗政ら常陸・下野の御家人は北条側として参戦しています。そして、八田友家も彼らの縁戚関係があります。なんか、色々きな臭いですよね。

北条が娘婿である阿野全成を本当に大切にしていたら、果たしてこんなことになったでしょうか。その証拠に娘は死守していますからね。しかも流された上に最後に手を下したのも比企の変で北条に与した下野、常陸の御家人。北条が比企と対抗するためには、武蔵に勢力を持つ比企の背後に当たる下野、常陸とは当然友好関係が必要になります。直接接していないので利害も一致するでしょう。
同様に北条時房も頼家の近くに控えながら比企の変や頼家追放後もしれっと義時側について生き残っています。そもそも、時房も八田知家も最初から北条側だったとすれば…。八田知家が本当に頼朝の命で阿野全成を誅殺し、北条時政にとって娘婿である彼を殺した人間をお咎めなしとするでしょうか?

結局、北条政子と義時は比企や頼家との抗争を全て父である時政におっ被せて自分は泣く泣く時政に従った体にしました。その時政と一緒になって頼家と比企能員に対立したと吾妻鏡に記された阿野全成。さて、実際のところはどうだったのか。

ちなみに、前条の誅殺から頼家追放までの流れはこんな感じです。

  • 5月19日 阿野全成が捕縛されて監禁される
  • 5月20日 頼家が阿波局の引き渡しを求めるが政子が拒否
  • 5月25日 全成が常陸に流される
  • 6月23日 頼家の命令で八田知家が阿野全成を誅殺
  • 7月16日 阿野全成の三男が京で誅殺される
  • 7月20日 頼家が倒れる
  • 8月27日 頼家危篤
  • 9月2日 若狭局が頼家に北条討伐を訴え、頼家も承諾。それをたまたま聞いた政子が時政に告げ、時政中江広元の暗黙の了解を取り付けて比企能員を誅殺
  • 9月5日 頼家が回復するが、比企能員や息子、一幡が討たれたと聞き激怒
  • 9月7日 政子によって頼家が出家
  • 9月15日 千幡(実朝)が征夷大将軍に宣下
  • 9月29日 頼家が修善寺へ事実上の追放

もう一つ不審なのが仁田忠常の死。北条とも縁戚の伊豆の御家人である仁田忠常は頼朝挙兵時からの御家人です。北条に近いのは衆目知るところです。実際、曽我の仇討ちの際には曽我兄弟の兄を討ち取っています。今回、頼家の命令で阿波局の引き渡しを求めてきた際に政子の指示で鎧姿で現れてます。しかし、頼家からの信頼も篤かったとされています。比企が討たれたと聞いて激怒した頼家が忠常に時政討伐を命じたともされています。
比企能員の変では能員を直接誅殺した二人のうちの1人でもあり、その後の比企一族討伐戦でも北条方で参戦。しかし、その恩賞の件で北条時政の元を訪れた際に帰宅が遅れたことで弟たちが義時のところに押しかけたことを理由に謀反の疑いをかけられて誅殺されてしまいます。なお、この時和田義盛も時政討伐を指示する手紙を受け取っていますが、義盛はそれを時政に差し出したとされています。忠常はそうしなかったとも言われていますが、吾妻鏡の話なのでどこまで信じて良いものか。長年、北条のために働いてきたのにあっさりと誅殺されてしまうあたり、阿野全成にも通じるところがあり一連の事件の口封じだったのではないかという気がしてきます。

義時、決意を固める?

今回、ついに比企能員に対抗しはじめたかに見えた江間義時。北条政子に例の如く無茶振りで「なんとかしなさい」と言われた後のシーンで、頼家を近くに待機させて比企能員の企みを暴く…はずが、肝心の頼家が倒れて不在。能員じゃなくても詰めが甘いと言いたくなります。

こんなことはこれで最後にする、とか言いつつ、その後も北条氏は比企能員を皮切りに、畠山、和田、三浦と次々と滅ぼしていきます。その血と屍の上に築かれた北条得宗体制は、足利と新田という源氏の流れを汲む一族によって追い込まれ、彼らによって血塗られた鎌倉の地を自らの血で染め直す破目になります。因果応報ですね。

その元を作った北条政子と義時。彼らが本性を表すのはこれからです。

追記(2022/8/8)・北条時房の改名

今回、北条時房が改名した件を触れてなかったの追記します。

本大河では時政からして「実は気に入らなかった」とぶっちゃけて時連改め時房が「悩んで損した」みたいにガッカリするシーンが描かれてます。その時政が「三浦からもらった」と言っていましたが、三浦一族の佐原義連が北条時連の烏帽子親です。普通、烏帽子親は主君や一門の主筋、地域の有力者にお願いしてなってもらうものであって、佐原義連がやってきて「連の字をやるよ」とか言うものではありません。つまり、親である時政自身が(名目的には)佐原義連に頼んだはずなので、あの言い草はないのですが。

その佐原義連は三浦の中でもエピソードがある方で、例えば義経の鵯越えの逆落としでは「三浦ではこれくらいは大したことない」と豪語して真っ先に駆け下ったといわれているほどの人物です。もちろん、本大河では未登場ですけど。きっと、イケメンの畠山重忠に遠慮したのでしょう。先日の放送で亡くなった三浦義澄の弟ですので、当時の三浦と北条の力関係が分かりますよね。義澄と時政は伊東祐親の娘婿同士ですが、当然、佐原義連とは特に関係はありません。

その義連が時政の息子の時連の烏帽子親ということは、当時の時政の地位がその程度だったということになります。本来なら一門の主流である伊東や工藤に頼むべきところが、地理的なつながりもない三浦の、しかも嫡流の義澄ではなくその弟の義連が烏帽子親でその一字をもらったとなれば、それはこの頃(1189年)の北条時政にとっては痛恨の極み。今(1203年)の時政にとって、まさに「面白くない」のは確かかと思います。本大河のように頼朝初期から北条が力を持っていたのであれば、頼朝が烏帽子親になって頼の一字をもらっても不思議ではない気がするのですが、その頼朝の命令で佐原義連が烏帽子親になったとのこと。

この改名話は吾妻鏡が出典であり、劇中のように平知康の話がきっかけですが、実は頼家がそうしろと言ったという話があります。吾妻鏡というのがミソで、また例によって「そういうことにしたかった」のではないかという疑惑があります。時政としてもまさに「面白くなく」て、しかも関わったであろう源頼朝や三浦義澄が亡くなっており、もう義理もないと思ったのかもしれません。とは言え、あからさまに三浦の下になるのが嫌だったとも言えないので、平知康の話をきっかけに頼家の命令で渋々、という体裁を整えたのではないかと。

なお、改名自体は1202年の話で、一連の騒動の前の話です。で、平知康が京に戻ったのも頼家が鎌倉を追放された後の話なので、今のこの時期に平知康が京に戻るとか言ってるのもおかしな話です。

この佐原義連は今回の主役である阿野全成とも実は間接的に縁があります。頼家の命令で全成を捕縛したのが武田信光。本大河では八嶋智人さんが演じた甲斐源氏の武田信義の息子です。そして、その娘が佐原義連の妻になっています。

義時の息子の金剛こと頼時が泰時に名を改めたのが1200年から1201年とされています。この頼は当然頼朝の一字をもらったもので、烏帽子親は源頼朝です。本大河ではこちらが頼家からの命令となっていますが、もちろんそんな記録はありません。泰時の改名の理由は不明ですが、さすがに主人から与えられたわけでもないのに同じ「頼」の字を持つことは遠慮したとも言われています。でも、泰時が元服したのは1194年、頼家の元服時期は不明ですが1196年から1199年の間とされているので、頼朝のせいなのですけどね。

この一連の改名劇は、頼朝の影響下から逃れたかった時政の想い、というのは勘ぐりすぎでしょうか。

2022-08-14趣味三浦一族,大河ドラマ,鎌倉時代,鎌倉殿の13人

Posted by woinary